喫茶店で過ごした時間には沢山の甘酸っぱい思い出がある。これは大阪で暮らした時代に描いた喫茶店のスケッチとそれにまつわる物語の断片である。
下宿周辺Map
下宿は梅田駅のそばだった。便利だけど大学まで遠く、学業を志す者にとっては甚だ誘惑の多い所だった。そこで8年、素晴らしい夢のような時を過ごした。
天満駅から環状線と私鉄を乗り継いで大学へ行き、帰りは大阪駅で降りて本屋を覗き繁華街をぶらついて、喫茶店で一服しながらノートや紙ナプキン・コースターにスケッチを殴り描きした。
L&L
11月8日木曜日 PM1:48
あれから3日経ったけれど、相変わらず俺の中はあいつでいっぱいだ。さっきあいつから電話があった。まだ耳にあいつの声が残っている。受話器の向こうのあいつが見えるようだ。3日の間溜めていたあの日曜の出来事を、手紙に書こうとしていたのに、さっきの電話で話してしまった。
11月9日金曜日 PM5:05
またしても授業をサボり阪急ファイブの書店で「宮本武蔵」2巻を買い、「ケイの凄春」を立ち読みする。ケイとカレンはどうなってしまうのだろう。読みながら目頭が熱くなり続きが読めなくなる。周囲を気にしながらも涙が止まらない。愛というものはいったい何なんだろう。愛する二人の姿や、出来事が激しければ激しいほど感動が大きい、その分だけ愛も大きいように感じてしまう。いったい愛の大きさというのは何で決まるんだろう。
L&Lはガラス張りの入口から螺旋階段で2階に上がる。30人ほど入れるお店だ。照明は床から立った棒状のスタンドによる間接照明。窓の外は商店街のアーケード。壁には飾り付けがほとんどなく、薄いベージュから白系統で統一されている。椅子は黒いビロード張りで、ガラス板のテーブルはくくりつけ。全体的にあっさりしている。カウンターはなく奥は鏡張り。
下宿からすぐそばのこの店は一人で訪れることが多かった。いつも客が少なくて、一人になれるところだった。
COFFEE HOUSE こんせんと
2月16日土曜日
やたらめったらに甘えてみたくなる日というものがあるもので、昨日の俺がそうだった。
「今日はすぐ帰るからね!」
「なんで?」
「あなた明日試験でしょう。それに私今日用があるの」
「いいじゃん、試験なんてどうでもいいよ」
「だめよ、頑張らなくちゃ」
「帰るなよ」
「だめ」
12月12日水曜日 PM4:15
中崎町の地下鉄駅のある北京飯店の横道を真っ直ぐ濱吉の方へゆく途中に「COFFEE HOUSE こんせんと」がある。緑色の入口を押して入る。カウンターの横をぐっと奥に入ると少し広くなった部屋がある。10人ぐらい入れるその部屋の窓に向かって座ると、窓の向こうに大きな御神木が見え、その向こうに薄汚れて少し傾きかけた2階建ての長屋がある。ちょうど友人の部屋に灯がついた。帰ってきたらしい。その隣が俺の部屋だ。鳩時計が午後5時を教えてくれた。外は暗くなり始めている。そろそろバイトにゆく時間だ。空は薄曇りで寒かった。今にも雪が降ってきそうな天気だ。もうすぐクリスマス。そしてお正月。この月に入ると時間の速度が加速するように思える。22歳の師走。
この下宿が見える窓のある喫茶店で、暖かいアメリカンを飲みながら、古ぼけた下宿を見ていると、何だか遠い昔を眺めているような気持ちになる。
天井にスピーカーが埋められ、壁は白っぽいベージュで天井と同じ色作り。入り口、窓、カウンター、棚など緑で統一。幅5m以内の狭さながら奥行きは20mほどある。カウンター中心に白熱電灯の照明で、天井からスポットライトが照らしている。
下宿の裏にあるこの店は、食堂であり、図書室であった。朝昼晩気が向くと出かけてコーヒーを飲み、本を読み、絵を描いた。
Apple House
11月25日水曜日 PM3:30
カロリンという店がある日ころっとムードを変えて素敵なお店になっていた。とても小さな店だけど夜になるとスナックになるらしい。ピンチやジョニ黒・オールドパーなどスコッチが多い。レコードはデキシー。お店の中は天井からやたらと棚が紐で吊ってあって植木や白木のおもちゃが置いてある。奥にはピアノが置いてあって至る所にギターが立てかけてある。テーブルの上にも白木のゲームがいくつも置いてある。コーヒーを頼むとミルクの代わりにホイップクリームが添えてある。
2月13日 AM11:00
今にも、そこの扉を開けてあいつが入ってくるんじゃないかという期待で表を見つめている。入り口の壁にノーマンロックウエルの模写がかけられていた。あまりうまく描けてなかったが、ロックウエルを知るきっかけをくれたのがこの店だった。
11月23日金曜日
今日も雨です。でもこんな雨のお休みの日もいいもの。ジャズでも聴きながら甘いコーヒーでもというところでApple Houseにいる。驚いたことに、お店の奥のピアノはただもんじゃない何と自動演奏を始めた。
11月25日日曜日 PM7:30
ピアノ・ベース・ギター・ボーカル各1名のカルテット。それにしてもこのボーカル、普通にしているとそうでもないのに、歌い始めると途端に輝くように綺麗になるのは何故だろう。下宿のそばのそれこそ町外れの小さなお店でライブがあって、お客に外国の人が混じっている。我が街は国際都市なり。
ジャックと豆の木
1月20日日曜日 AM11:00
先日で一応バイトはピリオドを打つことになった。案外終わったんだっていう実感なんてないらしい。何かを書こうと思っても書けるものではない。特に1月は何か一生懸命描いた試しがない。2月の試験期になると俄然書き始めるのだ。
11月29日水曜日
今日俺休校なんです。フールオンザヒルが聞こえる。彼女を30分も待たせてしまった。寝坊してしまったのだ。彼女との待ち合わせによく利用したお店だった。
茶の木
2月20日月曜日 PM5:18
ダージリンとマイルドセブンとジャンボトースト。ついにオープンリールのテープに録音された「かぐや姫」と「小椋佳」を2回り聞いてしまった。店の女の子ニコニコ、店のおっちゃんイライラ。ここで小説「鳥の人」を書いた。
喫茶館英国屋
12月14日火曜日 PM9:00
隣の人は小椋佳について語り合っている。
「あの人はだねー・・・!」
「なるほど、しかしねー・・・!」
「やっぱり・・・だよ」
あんまり人の話を盗み聞きしちゃ悪いと思いつつつい聞き耳を立ててしまう。アランフェスが聞こえてくる。最近静かな喫茶店を探しているのに、ここは大変騒がしい。
「小椋佳あの人はいい人だよ・・・」
「うん」
もうすぐクリスマス。窓の外ではいろいろな人が右から左へ、左から右へと流れてゆく。
純喫茶トレビアン
9月14日木曜日 PM0:20
高野悦子の「二十歳の原点」を読んでいる。もう俺も二十歳を超え、21歳と5ヶ月たった。二十歳で今までの俺に区切りをつけるつもりでいたけれど、何の区切りもつかないまま1年と5ヶ月経ってしまった。俺にとって二十歳とは何だったんだろう。単なる社会習慣の区切りに過ぎないのか。俺はもっとこの二十歳という時を重く考えていて、まるで二十歳になったら今までの生活がころっと変わってしまうような、何だか魔法のような力が働くのを期待していて、何も変わらなかったことで落胆している。
俺は、自分の生きているということが、ちっともわかってないんじゃないかと思う。まるで大きな大根を何も考えず、大根おろしでガリガリおろしているような。ただただここに大根があるからなくなるまで削っているような。そのうち思うだろう、短くなって、削りにくくなってから、しまったこんなに一杯おろしてしまっても食えやしない。勿体無いことをした、でもここまで削ってしまってはどうしようもない。そう言いながら残りの大根の尻尾をポイと捨ててしまうのだ。
CHANNEL.2
7月2日金曜日 PM2:35
晴れです。梅雨だというのに大阪の街は乾燥注意報が出ています。ちょっと大きめのカップにたっぷり注がれたアメリカン。隣に座っていた女の子達は話し疲れて黙ってしまった。おいらはのんびり良い気分。ちょっと冷房が効き過ぎて腕が寒い。うるさい雑音の中にたっぷり孤独を注いでポカンとしている。戦争だスパイだ何やかやと世の中は賑やかだけど、オイラはいつものんびり良い気分。
インタープレイ
6月6日火曜日 PM9:55
また俺たちはつるんでサボってしまった。俺達のオンスの日らしい。なぜか街をふらつきたくて仕方がない衝動に駆られ、梅田の街をぶらぶらしてしまった。阪急ファイブは可愛い女の子で溢れ、巷にはバカ面をした若者が俺たちを含めあてもなく波のように寄せ合い引き合い漂っている。俺たちはクラブに出なかったこと6限目の授業に出なかったことに罪悪感を感じながら、お互いの意思の弱さに目をつぶって誤魔化し、イライラの混じった気分で、すがりつくように潜り込めるところを探した。ようやくこのジャズ喫茶「インタープレイ」で本を読み始めた。これが青春というものなのか、何か歯切れの悪い砂の混じったゼリーのような、微かな甘味、苦味はあまりにも頼りなく自信なさそうだ。
ラゼーヌ
6月12日火曜日 AM8:00
最近俺たちにとって火曜日は魔の日になってしまった。以下は友人がノートに書き込んだ独白「再履修をサボろうとしている。これは女に会うためである。馬鹿な奴だと言われてしまいそう。サボっても会えるかどうかわからないのだ。いや多分会えるはずだ。」喫茶ラゼーヌでまたしても二人で本を読んでいる。ここの親父は大変に愛想が悪い。
VAUDEVILLE
8月31日火曜日 PM11:00
今日の俺は悪酔いをしようとしている。大した理由はない、ただそういう気分なのだ。つくずく俺はいい加減な男だと思う。いつも気分次第。お金がないけれど気にならない。よし!今日は潰れるまでここにいるぞ。何もかもがどうでも良くなってきた。うーん?彼女のことを考えるとどうでもよくなんかあるはずがない。どうなっているんだ俺は。
マティーニはよ効く目が回ってきた。バクダンをもう一杯飲もう。いい気分だ。俺の顔は真っ赤だ。不覚にも欠伸が出る。だんだん焦点が定まらなくなってゆく。目は見えているけれど三重に見える。でもまだ気分は悪くない。ぼやけた目の焦点を気力で合わせる。右目の焦点が合うと左目がぼやけ、左目に力を込めると右目がぼやける。最近連日のようにこのボードビルに来てバクダンを煽っている。こうして記録できるのもそろそろ限界のようだ。
洞
6月5日水曜日 PM10:30
殺伐とした気分だった俺はそのままへたっていたかもしれない。自分に嫌気をさしながらバイトにゆく。今日は酒を食らって憂さ晴らしをしたい気分だった。そんな日に限って客が少ない。1組のカップルがおとなしく飲んでいるだけ。爽やかな雰囲気のカップルをジロジロみては失礼だと思いながら、暇なのでつい目がいってしまう。そんな二人を見ているうちにどういうわけかイラついた自分にちょっと微笑みが戻ってきた。次第に夜が更けて団体が入ってきた。カップルは騒がしい中でひっそりと肩を寄せ合い口づけをした。いつもの俺ならこんなことは思わないだろう、でも今日の俺はうっとり眺めていた。カップルが帰ってからも俺の中で二人の口づける姿が駆け巡っていた。
番外編
3月11日火曜日 PM3:00
神戸の町と六甲の山々がよく見える。あと30分で乗船だ。あと41時間であいつに会える。沖縄は晴れているだろうか。あいつは元気でいるだろうか。待合室で「お弁当はいかがですかー、サンドイッチはいかがー」と売り子さんの声が響き、BGMのスカボローフェアーがモニュモニュと聞こえている。
インシャラー
3月18日火曜日
沖縄那覇市国際大通り珈琲茶館「いんしゃらー」にて一服。これから二人で飛行機に乗って大阪に帰る。
追記
お店ごとにまとめたから、日付が前後しているし、そもそも年代に幅があるため、読み物として一貫性はないはずだが、何となく繋がっていて面白い。当ブログの「喫茶店」や私小説「俺の心 第3部」「俺の心 外伝1」「俺の心 外伝2」にリンクしている。覚えることが苦手な私だが、ノートに書き留めたスケッチや文章を見ると不思議なぐらいその時のことが思い出される。きっと脚色されているに違いないのだが、当時の会話や音楽、喜びや悲しみ、肌の温もりまでが思い出される。人の記憶というものは不可思議なものだ。コロナ禍が落ち着いたら昔訪れたところを散策してみたい。
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