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執筆者の写真Napple

「ケイの凄春」

2020/9/19

 青春時代、毎週喫茶店で漫画アクションを貪るように読み、場所柄も忘れて涙した。二十歳そこそこだった。ようやく彼女に出会い。我が愛はかくあるべしと心に刻んだ。かくも凄絶な愛があるだろうか。彼女に対する想いだけでなく、日々の心のあり方にまで影響して、自分を律する基準の一つなった。しかし、無情にも現実は、彼女と一緒になることさえ出来なかった。


 時を超え、幾度か本書に出会う機会が訪れる。ある時は、日々の生活に追われ、貧しい気持ちになっていた己の心を鮮やかに蘇らせ、いかなる時もかくあるべしと堕落していた我が身をリセットさせてくれた。人並みに結婚して、心の奥にケイを置いて、かくあるべしと生きたつもりだったが、妻は去っていった。


 一人になることは自分が望んだことだったと改めて悟る。独り身の気軽さ、自分は人を幸せにすることはできない。我が身のことで精一杯なのだと。そうして日々の喧騒に埋もれていたある日、再び本書に出会う。躊躇しつつ読み始めたが、気がつくと貪るように読み進んでゆく。何度も読んだ物語だが、新たな感動に身を震わせ、かくあるべしと思いを新たにさせる。


 本書は、道を踏み外しそうになるたびに、脇道にゆかぬよう、我が道をリセットしてくれる稀有な存在である。

 初めて読んだのは20歳の彼女ができた頃。次は50代、妻となんだかしっくりいかなくなり出した頃だった。そして60代身軽な独り者に戻って再び読むことになる。状況が違っても、いくら歳を重ねても、心の深みに届く思いは同じ様だ。何度も人生を生きてきた様な気になる。小池一夫作、小島剛夕画の本書は、巷の話題にはならなかった様だが、傑作だとおもう。


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