2023/2/23
最初に絵に接したのは絵本に違いない。でもはっきり思い出せるのは学校の販売会で買った「モナリザの微笑」のレオナルド・ダビンチだ。いや、名前を知らないだけでもっと前に目にしていたのは模型の箱絵を描いた小松崎茂というべきかもしれない。いずれにしても本格的に画家の名前と絵を知るキッカケとなったのは父の画集だった。
河出書房:現代世界美術全集 全16巻 1965年
集英社:浮世絵体系 全17巻 1976年
集英社:世界美術全集 全18巻 1979年
中学生になると家族で日展に行くようになった。機会があれば画展にでかけた。中でも万博美術館で見た世界中の名画は素晴らしく魂に刻まれた。
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大学生になるとめったに画展に行かなくなった。毎日徘徊する大阪の街には画展に行く必要がないほど絵が溢れていた。本を読むようになった事で、本に描かれた絵がきっかけになった。子供時代は古典的な絵画に接することが多かったが、若者になり現代的でポップな絵に惹かれていった。
書店は素敵な絵に出会える場所だ。学生時代頻繁に訪れた阪急ファイブ5階にあった駸々堂書店は、原画展やサイン会、同人誌の販売などをやっていた。ポップな画集も多く取り扱っていて、画展では出会えない多くの画家にで出会うことができた。
レコードショップも素敵な絵を見つける場所だ。たいてい歌手の顔がジャケットを飾っていたが、素敵な絵のジャケットは、どんな音楽を聴かせてくれるのだろうとわくわくさせてくれた。そこで見つけた美しい色彩と不思議なイメージが絵心を刺激する。家に帰ると思い出しながら描こうとするのだが描けたことはなかった。
お菓子や本のおまけのカードも素敵だった。気に入ったものは引き出しにしまったりするのだが、描いた人の名前を知るまでは行かない。ただなんとなくいいなと記憶にしまわれる。多くの絵はそうして通り過ぎてゆくけれど、そうした記憶が積み重なって好みが出来上がってゆく。
テレビから得る知識もある。NHKの「日曜美術館」は見たり見なかったりだが、久しぶりに見ると新しい出会いがある。学生時代書籍は日本の作家を多く読んでいたけれど絵は海外の画家に目が向く傾向があった。「日曜美術館」を見るようになって、日本の画家の良さを再認識するようになった。
あまり好きでなかった画家の絵も模写をすると、それまで気がつかなかった良さに気づくことがある。模写することでいろいろな発見がある。
昔は好きな画家の絵を欲しいと思った。画集や図版が欲しかった。そしてなにより本物に優るものはないと思っていた。
ところが、最近はネットで色々な絵を見ることができるようになり、見たい時に見ることができる手軽さも相まって、現物にこだわる気持ちが薄らいだ。模写をすることで取り込めた気がして欲しい気持ちもどこかに消えてゆく。
本物の絵の素晴らしさは言うまでもない。大きな絵は圧倒されるし、絵の具の盛り上がりや筆の跡・匂いは、ネットで見る絵からは窺い知ることができない。本物の良さは確かにある。それどころかネットで見る絵は撮影した時の状況やディスプレイの性能で色合いが変わってしまう。さらに原画だけではなく、誰が描いたかわからない模写が沢山登場する。それが何を意味するのか短絡的なことは言えないが、確かに時代は変わったのだと思う。AIの登場で無限と言っていいほど出現する絵や、高画質技術やARの登場で、いながらにして大きな絵を好きな角度から見ることができる様になり現実を凌駕しつつある。
もしかすると模写に感動して、原画に幻滅することさえ起こりうる。コンピューターで描かれた絵は、サイズや匂いは意味がない。オリジナルの色も不確定かもしれない。NFTはデジタルアートをコピーされない唯一無二の存在にしてくれるかもしれないが、データ的に唯一無二と識別できると言うことが絵としての良さを唯一無二にはしない。何が言いたいかと言えば、本物と偽物の違いを云々する意味が無くなっていると言うことで。本物へのこだわりはたいして意味がないと思うようになったと言うことだ。今も昔も言えることは「良いものは良い」ということだ。
追伸
かつて画家とは名を成した有名な人であった。その多くはもうこの世にいない人たちだった。ところが、素敵な絵はそこかしこに溢れている。それらは名も知らぬ人の作品だったり、身近な人が描くものだったりする。
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