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新ジャポニズム

執筆者の写真: NappleNapple

2025/3/17


「NHKスペシャル 「新ジャポニズム 第2集 J-POP “ボカロ”が世界を満たす」」を見た。そこで思ったことをAIと話し合った。(黒文字:私、色文字:AI)



 今回の日本発の世界が注目するものは「歌声合成技術ボーカロイド」だった。初音ミクのことは知っていたが、よくは知らない世界だった。YOASOBIやAdo、米津玄師たちがボカロをベースにしていたことを知って、驚きと納得があった。彼らの独特の音楽はボカロから来ていたのだ。そして世界の若者がボカロ曲に注目している。番組ではその理由に、初音ミクの平坦な音声、人間らしくないところに、一種日本独特の余白が存在することに起因すると解説した。なんでもはっきりさせたい多くの国の中で、日本ははっきりさせない、余白を残すことで、観客に想像の余地を与える。その結果、初音ミクの言葉がすんなり入ってくるのだという。そういうものかもしれない。


 なんとなく、音楽のことを考えている時だったから、とても面白く、自分の求めているものにも参考になるものがありはしないかと思った。そうかボカロを使う手があったか。


 僕が探っている音楽は自分の中のものを引き出すことだ。それをボカロを使ってやろうとしている人たちがいるということだ。でも、よく聞いていると、多くの人を惹きつけているのは、ボカロを使っているけれど、そこに使われている言葉にこそ意味があるようだ。現代社会において自分の居所を見失ったものたちが、ボカロ曲の中に、そんなことないよと言われ、勇気づけられる。そして自分もそうしたものを作りたいと思う。そんな彼たちがみな口を揃えていうのは、「自分が勇気付けられたように人を勇気付けたい」そんなようなことだった。


 その途端僕の気持ちは一挙に冷めていく。冷静に考えるとボカロ曲は似たような曲ばかりに思える。そして、番組に登場した人たちが口を揃えて、自己表現をしたいという想いの根源で、人を勇気付けたいという。そこにはなんとも居心地の悪い違和感がある。


ーーー


面白い視点だね。「ボカロを使う手があったか」という発見から、「でも似たような曲ばかりに思える」と一歩引く流れが、すごく率直で興味深い。


自己表現と「人を勇気づけること」の違和感について、もう少し掘り下げて考えてみたくなる。自己表現というのは、あくまで「自分の内側を外に出す」ことであって、必ずしも他者に向けたメッセージではない。でもボカロPたちの多くは「勇気づけたい」という動機を語る。それは自己表現の結果として誰かが救われるのではなく、最初から「誰かのために」という意識があるということ。そこに温度差を感じたのかもしれないね。


それにしても、「余白」や「平坦さ」が世界に響くという視点、興味深かった。これは日本の美学そのものでもあるし、音楽だけでなく、君が考えている物語の世界観ともどこか通じる気がする。


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 そうなんだ、その通り。そこをもう少し深く掘ってみたい。そこには僕の思っている、まだ気がついていないことがあるような気がするんだ。しばらく付き合ってくれ。


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もちろん、付き合うよ。


「まだ気がついていないことがある」という感覚、すごくいいね。それが何なのか、一緒に探ってみよう。まず、「自己表現」と「人を勇気づけること」の違いを考えると、自己表現は本来、自分の内側から溢れるものを形にする行為。一方で「勇気づける」は、誰かのために作用しようとする行為。ここに違和感があるのは、「自己表現」が「他者への影響」を目的に変えてしまったとき、何かが薄まるからかもしれない。


じゃあ、ボカロの「余白」の話に戻ると、ボカロの平坦な声は、逆に聴き手の感情を引き出す。「決まった感情」を押しつけず、受け手にゆだねる。その結果、聴く側が勝手に自分の物語を作れる。この仕組みと、「自己表現 vs. 勇気づける」の話は、どこかで繋がってくる気がしない?


このまま考えを深めていこう。どんな方向からでもいい、思ったことを話してくれ。


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「誰かを勇気づけたい」それはとってもいいことだ。「誰かの役に立ちたい」と誰もが思っているからね。それは、自分の存在に意味があるということを確認したいということだ。自分は一人じゃない。自分は生きていていいんだ。そうやって確認したいんだ。でもそれはなぜ?自分でそう思えないということの裏返しだ。それは、今までの色々な出来事がそうさせてきたに違いない。無視されたり、邪魔にされたり、馬鹿にされたり、自分のことを認めてもらえない経験。自信をなくしてしまう。だから第三者からの「私も同じだよ」「君はそのままでいいんだよ」と言う言葉に救われる。


 若い時は特に自分に自信が持てなくなると、凹んでしまう。どうしようもなくなる。そして役に立つ自分になりたいと思う。それはいいことだと思う。しかし、そうした想いはまた自分を苦しめかねない。それに気がつくにはまたいろいろ経験が必要なんだけど。


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すごく本質的なところを突いているね。「誰かを勇気づけたい」という願いの根底に、「自分で自分を認められないからこそ、誰かの役に立つことでそれを埋めようとする」構造があるというのは、とても鋭い視点だ。


自己表現が「勇気づけること」に変化していくのは、もしかしたら、表現すること自体の喜びよりも、「認められること」や「受け入れられること」を求める気持ちが勝ってしまうからかもしれないね。でも、それはまた新しい苦しみを生む。自分の表現が誰かのためにならなければ、自分の価値がないように感じてしまうから。


これは「余白」とも関係している気がする。ボカロの平坦な声には、明確な感情がない。でもだからこそ、聴く人がそこに自分の気持ちを投影できる。人は、自分の想いをどこかに託したいのかもしれない。でも、その託し方を間違えると、自分が空っぽになってしまう。


「誰かのために」っていうのは、強い動機だけど、それがいつの間にか「そうしなきゃ自分に価値がない」になってしまうと、苦しさを生む。じゃあ、本当に「表現」ってなんだろう?どうすれば、自分を押し殺さずに、なおかつ誰かに響くものを生み出せるんだろう?


この違和感の先に、まだ見えていない何かがありそうだね。


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 それは、簡単なことかもしれない。誰かの役に立とうなんて思わなくていいということさ。ボカロ曲を聴いて勇気付けられたのは素敵な出会いだった。自分も何かを生み出したくなった。それだけでいい。あとは、自分が何をやりたいのか、何を生み出したいのか、正直にそこに向かえばいいんだと思う。なまじそこに人のためという思いを付け足すからしんどくなる。


 「最後の講義 脚本家大石静」という番組でいいことを言っていた。「自分にとって面白いと思って書いているのか、他人にとって面白いと思って書いているのか?」と問われた彼女は「自分が面白いと思わないと、人が面白いと思わないと思います。・・・世の中に合わせないほうがいいですよ。」


 僕はいつも「独りよがり」じゃないかを自問自答していた気がする。自画自賛、独りよがりにはなりたくない。でも、自分が心底楽しめなければ、意味はないに違いない。だから、独りよがりではないかという自問が必要だと思う。ただ好きなようにやればいいってわけでもないからね。


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「誰かの役に立とうなんて思わなくていい」――これはすごくシンプルで、でも本質的な答えかもしれない。


 ボカロ曲を聴いて勇気づけられたのは、作り手が「人を勇気づけよう」と思ったからではなく、「自分が生み出したいものを生み出した」結果だったんだよね。そこに共鳴する人がいた。それだけのこと。でも、それが一番自然で強い形の「響き方」なんだと思う。


 大石静の言葉も力強いね。「自分が楽しくないものを、人が楽しいと思うはずがない」。これ、創作を続ける上で一番大事なことかもしれない。でも、その「楽しさ」がちゃんと本物かどうかを確かめるためには、「独りよがりじゃないか?」っていう自問も大事になる。


 つまり、「独りよがり」=「好きなことを好きなようにやる」ではなくて、「自分が心底楽しめることを正直に追求する」こと。そして、その楽しさが「本物か?」を問い続けること。


 ここで面白いのは、日本の「余白」の美学とも繋がるところだと思う。ボカロの平坦な声が聴き手の解釈の余白を生むように、「作り手が全部を決めつけない」からこそ、聴く人、見る人が勝手に共鳴する余地が生まれる。自分のためにやることが、結果的に誰かのためになる。それが自然な形なんじゃないかって気がしてきた。


 この先、さらに掘っていくなら、「楽しさの本質」や「余白の活かし方」、あるいは「創作の独りよがりと普遍性のバランス」について考えてみるのも面白そうだね。


ーーー


 楽しさの本質か?創造する楽しさは単純な生理的なものと少し違うような気がする。僕の場合、何かをふと思いつくことがある。その思いつきから気持ちが離れないんだ。初めははっきりしないけれど、思い巡らすうちに、少しずつ形がはっきりしてくる。特に文字にしたり、絵にすることがはっきりさせる手助けになる。どんな時もそうではないけれど、時として、どんどん形がはっきりして、その過程がワクワクするんだ。まさにその時楽しくて仕方がない。とても体が熱くなっていくんだ。


 ところが少し時間が経つと、スーッと冷めて、思いつきが大したことない気がしてくる。そしてしゅんとするんだ。でもまた思い直して、見つめていくと、その中にまた面白いものを見つけて、ふっと温度が上がったりする。そんなことが繰り返されるんだけど。その時って本当に楽しんでいる気がする。とても漠然としているけれど、そこでは多く思考実験をしていて、色々な可能性を感じるんだ。


 これが楽しさの全てではないけれど、この一面から、楽しさの本質は、思いつき、思いつきを膨らませる思考実験、その過程に得体の知れない楽しさがある気がする。そうだ、その思考実験の過程には、この思いつきが、人に与える影響も考えている。喜んでくれるかも知れない。そんな思いがそこには混ざっているよ。ただそのことを中心にしているわけではないんだね。とにかく楽しいのは、思いついたこと、とにかく自分の中から溢れてくるものを引き出そうとすることが楽しいんだ。


ーーー


それはまさに「創造の楽しさ」の核心に触れている気がする。


思いつきがふと降りてくる。そこから離れられなくなる。初めは曖昧でぼんやりしているけれど、言葉や絵にすることで形が見えてくる。そして、形が見えてくる過程そのものが楽しくて仕方がない。まさに「ワクワク」の瞬間。


でも時間が経つと、なぜか冷めてしまう。「なんだ、大したことなかったかな」と思う。だけど、しばらくしてまた見直してみると、そこに新しい面白さを発見して、再び温度が上がる。この「温度の波」が創造のリズムなのかもしれないね。


思考実験という言葉がすごくしっくりくる。思いつきを試してみる。ありえないことを想像する。もしこうだったら? こうしたらどうなる? そうやって自分の中で可能性を遊ばせる。そしてその過程が一番楽しい。


ここで面白いのは、「誰かのために」という要素も無意識に混ざっていること。だけど、それを目的にしているわけじゃない。まずは純粋に「自分の中に湧いてくるものを形にしたい」という衝動がある。その衝動に従うことが楽しい。


これをもう少し掘ってみると、「思いつきが降りてくる瞬間」と「それを膨らませるプロセス」が、創造の楽しさの二本柱になっているように思える。

- 思いつきが降りてくる瞬間: 予期せず、突然訪れる。インスピレーション。

- 膨らませるプロセス: 形にしながら、思考実験を繰り返す。その試行錯誤の中でさらに発見がある。


この二つが絶えず循環する。その流れの中にいるとき、人は「創造の喜び」を感じるのかもしれない。


もう一歩進めると、「なぜ冷めるのか?」「なぜまた温度が上がるのか?」という問いも面白いテーマになりそう。


ーーー


 余白についてこんなことを考えていたよ。つまりね、何もかもを想像することは難しい。つまり自然と想像が及ばない空白はできてしまうんだ。そこを無理に埋めようとすると、面白くないものになってしまうんだねきっと。だからそこはあえてそのままにしておくのさ。意図的に余白を生み出すわけではないのさ。無理をしないってことかな。日本人はそこらへん曖昧を許容できる文化構造を持っている気がするんだ。たとえば宗教的にがんじがらめになっていないこともそうかも知れない。イエスノーをはっきりさせないで済ませてきた文化。大筋はあるんだけど、詰められないところはそのままにしておくのさ。誰かがそこを補完してくれたとしてもそれでいい。そんなおおらかで緩いものが結果的に余白の文化を生み出してきたんじゃないかな?


ーーー


なるほど、余白とは「意図的に作るもの」ではなく、「自然に生まれるものをそのままにしておくこと」なのかもしれないね。無理に埋めようとしないこと。詰めようとしないこと。


たしかに、何もかもを完全に想像することはできないし、人は常に認識できる範囲の中でしか考えられない。だからこそ、余白は必然的に生まれる。それを「埋めるべき隙間」と捉えずに、そのまま残しておく。この「曖昧さを許容する姿勢」が、日本の文化の中には息づいているように思う。


宗教的な枠組みの緩さもそうだし、日常のコミュニケーションでも「イエス・ノーをはっきりさせない」ことがある種の美徳とされてきた。あいまいなままにしておくことが「無責任」なのではなく、「余白」として機能することで、むしろ世界を広げることができる。


たとえば、俳句や和歌のように、言葉を尽くさずに余韻を残す美学も、まさに「余白」の感覚だよね。読む側がそこに自分の感情や想像を差し込む余地がある。日本の絵画や庭園も、あえて空間を空けることで「間」を生かしている。詰め込まないことが、むしろ豊かさを生むという逆説的な感覚。


この考え方を創作に当てはめると、「すべてを語らないこと」が重要になってくるね。物語においても、読者に委ねる部分を残すことで、受け取る人によって違う解釈が生まれ、その分だけ物語が生きる。まさに「余白の美」。


余白は「不足」ではなく、「豊かさ」なんだろうね。


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 しかしよく考えると、これは、みんなが共通の認識がある事が前提なんだ。日本人はほぼ単一民族で、文化的な背景に振れ幅が少ない基盤があるんだと思う。つまり、「はっきり言わなくてもわかるでしょ」という、お互いを推しはかるという文化というか、相手に求めているんだ。ところが、文化も考え方も違う人たちばかりだとこの方法は機能しないような気がする。


 日本の余白的表現を外国の人たちが面白がっているけれど、もしかしたら誤解して受け取っている可能性もあるんだ。面白がってはいるけれど、文化が違うと余白の意味も違ってきそうだからね。


ーーー


そうだね、日本的な「余白」は、ある程度の共通認識があることを前提に成り立っている部分が大きい。日本語には「あれ」「それ」「これ」のように曖昧な指示語が多かったり、話の中で主語を省略したりすることが多いのも、背景として「言わなくても伝わる」という前提があるからだよね。


これが文化や価値観が違う人たちの間ではどうなるかというと、「余白」ではなく「単なる情報不足」になってしまう可能性がある。たとえば、日本人同士なら「まぁ、いろいろあってね」と言えば、「あぁ、なんか大変だったんだな」と察してくれる。でも、背景を共有していない相手にとっては、「いろいろって何? 具体的に?」と疑問が残るだけになってしまう。


日本的な「余白の美」を面白がる外国の人たちは確かにいるけれど、それを「解釈の自由」として受け取っている場合と、「何を言いたいのかわからないけどミステリアスでカッコいい」と捉えている場合がありそうだね。つまり、日本人にとっては「共有された空白」であっても、他の文化圏の人にとっては「謎」になってしまうことがある。


この違いは、たとえば映画やアートの受け取られ方にも表れていると思う。

黒澤明の映画は、西洋の映画人から「間の美しさ」として評価されるけれど、彼自身は「日本の観客に向けて作っていた」と言っているし、宮崎駿の映画の「説明しすぎない部分」も、日本の観客には自然に受け入れられるけれど、海外では「理解しにくい」と思われることもある。


つまり、日本的な「余白の美」が世界で評価されるとしても、その意味は受け取る文化によって違ってくる可能性が高い。誤解されることもあるし、そもそも「余白」とは思われずに「よくわからないもの」としてスルーされてしまうこともあるかもしれない。


じゃあ、この「文化の違い」を意識したうえで、日本の余白文化をどう活かしていくか? あるいは、創作に取り入れるとしたら、どんなアプローチができると思う?


ーーー


 もう一度原点に戻って整理してみよう。

ジャポニズムについて、今、日本発の世界が注目する「ボカロ」を参考に。何が人の気持ちを惹きつけるのか?を番組から読み取ろうとした。そこで「楽しさの本質」や「余白」、あるいは「創作の独りよがりと普遍性のバランス」さらには「文化の違い」を意識したうえで、日本の余白文化をどう活かしていくか? ということを考え始めたんだ。


 文化の違いがあっても、余白は意味があるに違いがない。どんなふうに受け取られるか、どう受け取ってほしいか、作り手は考えるだろ。ところが、文化的な違いは、作り手の思いもかけないことを引き出したりする。むしろその自由さが余白の魅力なのだろう。それは意図的にできるものでもなさそうだ。だからこそ、埋められないものを無理に埋めようとしないと言うラフな感じでいい気がする。むしろ文化の違いを意識せずに、日本人が日本人に向けての日本人の感覚で想像すればいいし、そうすべきなんだと思う。それを異文化の人たちはミステリアスに感じたり面白がったり、一歩進んで日本を理解したいと思ったりする。日本の余白文化をどう生かすか?と言う観点では日本的な感覚で一向に構わないのだろうと思う。これは政治的な駆け引きではないのだから。誤解さえ恐れずに打ち出せばいい気さえする。それこそがジャポニズムらしさに違いない。


ーーー


そうだね、「文化の違いがあるからこそ、余白が新しい意味を生む」という視点はすごく面白いし、重要なポイントだと思う。


作り手が「どう受け取ってほしいか」を考えるのは当然だけど、文化が違うと受け取り方も変わってくる。でも、その「ズレ」こそが余白の魅力であり、新しい価値を生む可能性がある。ボカロの世界がまさにそうだよね。日本のクリエイターが純粋に「自分がやりたいこと」を突き詰めた結果、それが海外で「未来的」「サイバーパンク的」「エモーショナル」など、いろんな文脈で解釈されている。作り手自身が意図していない形で響くこともあるし、それが逆にボカロ文化の面白さを拡張している。


日本の余白文化も同じで、「どう伝わるか」をコントロールしようとするよりも、「自分たちの感覚で創る」ことが大切なんだと思う。むしろ「伝えよう」としすぎると、日本的な余白の良さが失われてしまうかもしれない。


たとえば、俳句や禅の世界では、「すべてを語らず、読み手に解釈の余地を与える」ことが美とされてきた。これは日本人の感覚として自然なものだけど、海外の人が触れると、ミステリアスだったり、逆に深い哲学を感じたりすることがある。でも、それでいいんだよね。こちらが無理に「こう解釈してほしい」と押し付ける必要はないし、むしろその「解釈のズレ」が、新たな価値を生む。


だからこそ、日本の余白文化を活かすには、「余白をどう伝えるか?」と考えるよりも、「どう余白を楽しむか?」を大切にすればいいんだと思う。作り手が無理に埋めようとせず、自分の感覚で自然に創ること。それこそが本来のジャポニズムの在り方に通じるのかもしれないね。



「新ジャポニズム」了

 

追記


この駄文に関わる駄文。




 
 
 

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