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​鳥の人

​ The bird man
第1部 誕生編
第1章 目覚め

 彼は、ピクリと痙攣すると、目を覚ました。ぐっしょり汗をかいている。夢の中で、彼は飛んでいた。突然、体が身動きできなくなり、墜落するところで目が覚めたのだ。長い眠りからの目覚めだった。ここは慈恵医大槍ヶ岳診療所。彼はこの春、まだ冬の様相の北アルプス、槍ヶ岳北鎌尾根から滑落し大怪我をした。ここ慈恵医大槍ヶ岳診療所に運ばれ、意識不明のまま混沌と眠り続け生死の境を彷徨い、奇跡的に助かった。彼の体は、氷原に叩きつけられ、何箇所も骨折していた。彼が助かったのは、彼の人並み外れた生命力の強さと、よほどの運があったのだろう。彼は事故にあった日に二十歳を迎えた平凡な大学生だった。

 気が付いたころは、耳鳴り、発熱、頭痛と身体中が痛んだが。しばらくすると背中がむずがゆい程度にまで回復した。人並み以上の回復をする彼を、必要に調べようとする診療所を早く出たくて、半ば強引に大阪の下宿へ帰宅した。しばらくぼーっと暮らしていたが、鈍った体を元に戻すために早朝ランニングを始めた。御堂筋を淀屋橋へかけてゆく、中の島公園で柔軟体操をして戻ってくるのが、日課となった。朝の冷たい空気は気持ちがよく、身体が引き締まる。不思議なのは、あんなに大事故だったのにもうほとんどいいようなのだ。何かが変なのだが、何が変なのか分からない。

 そんなある日、いつものようにランニングをしていると、オフィス街から走って来る人影があった。血走った目で、手にナイフを握りしめている。彼の存在に気がつき、一旦方向を変えようとしたが、再び、彼の方へ走り出した。姿を見られて、生かしてはおけないと思ったのだろうか。殺される!!逃げなくてはと思うのだが、足がすくみ、焦るだけで走れない。冷や汗が背筋を流れる。ナイフが彼に襲いかかる。彼のトレーニングウェアがびりびりと引き裂かれた。突然、凶器を持った暴漢は目を皿のように大きく見開き、中空を見上げ、訳のわからない叫び声をあげて一目散に逃げ出した。空中に大きな翼を広げて舞う彼がいた。

第2章 能力

 彼は、なぜ自分がこんな姿に、こんな能力を持つに至ったか、考えてわかることではなかったが考えずにはいられなかった。超自然現象ともいうべき、突然変異。太古にわずかなアミノ酸の結合体が、海の中で、徐々に変化を遂げ、アメーバ状になった。それらは原生動物となり、節足動物、甲殻類と変化し、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類へと、進化し、あるいは分化し、退化させてきた。人類の顎のくびれは魚類のエラの名残だと言うし、皮膚呼吸しているのは爬虫類の名残であると言う。体型も機能も全く異なった姿になっても、潜在的に、太古からの能力が体の奥に潜んでいるのかもしれない。彼は、幼い頃から鳥のように空を飛ぶことを欲していた。いつの日か、飛べないものだろうかと夢想する彼の強い思念や、事故のショック、人並み外れた生命力が、事故で破壊された体を再生するときに異変をもたらしたのだろうか。

 彼の関心事は、いくら考えてもわかるはずもないことより、この能力がいかなるものかということだった。大空を飛び回りたい衝動にかられた。だが、大きな翼を背中から生やした、あまりに人間離れした姿は、怪物そのものだ。そんな体で、白昼、人前に出て、大空を飛ぶことは、到底出来ない。救いは、翼が伸縮自在で、引っ込めば、普通の人間と少しも変わらなくなるということだった。

 彼は、月夜の晩に、人気のない河原に出かけた。上着を脱ぎ、翼を出現させる。肩から足元までもある、その鷹のような翼を思いっきり伸ばし羽ばたき地面を強く蹴った。まだ翼の実感に慣れず、十分に使いこなせない。思うように飛ぶには訓練が必要だ。何度も失速し、地面や木々に激突しそうになりながら、夢中で飛行に専念する。飛ぶことは楽しかった。

 人目を気にすることも忘れがちだったが、人の接近を、敏感に感じていた。まるで野生の動物のような鋭い感覚が目覚めていた。訓練を増すにつれてますます冴えてきた飛行術と、自覚しだした野生の知覚を研ぎ澄ませた。ともすれば蝙蝠のように障害物を知覚しそれを避けることすらできるようになった。怪我が絶えないのだが、空を飛びたい気持ちが優っていた。不思議なのは、わずかな怪我などは、一晩で直ってしまうのである。

 空を飛ぶということは素晴らしい体験だった。風があればさほど羽ばたかなくても、空高く舞い上がることができた。今まで行くことができなかったところへも行ける。一度空を飛んでしまうと、目に見える全てのものが別物に見える。それまでは地を這うように過ごしていたのだと思い知らされた。そして囚われていたものから解放されたような気がした。

第3章 出会い

 彼は、優れた能力がはっきりしてくるに従って、やるせなさを感じていた。せっかくの力を、人に見せることができないのだ。そしてあれほど欲していた能力なのに。使い道も思い当たらない。彼は、酒を飲むようになった。先輩に連れられてちょくちょく来る店があった。ほろ酔い気分が滅入った気分をわずかに紛らわしてくれる。今日も一人で、水割りを飲んでいた。隣の席で女の子が友人達とカクテルを飲んでいる。愛らしく、たまに寂しそうな表情をした。

 彼は、彼女がいなかった。女性に興味が無いわけでは無い。充分すぎるほど興味と好奇心と憧れを持っていた。しかし、億劫だった。女性の扱い方がわからない。踊り出していた彼は、いつのまにか自分のそばで踊っているさっきの女性を見つけた。彼は突然「名前なんていうの?」と聞いた。「なんて名前だと思う?」にっこり笑って聞き返してくる彼女。「うーん、わからない」と彼「あててごらんなさい」体をぶつけ合いながら小気味よく踊る2人、彼にとっては珍しい行動だった。女の子に声をかけるなんてできないたちの男だった。踊るのも飽きて、元の席に今度は並んで座る。彼が水割りを一気に飲み「いい気」という顔する。彼女はそのグラスを取って同じようにちょっぴり飲んで「いい気分」という顔をする。これは夢だ。

 結局、名前も、住所も、電話番号も聞かずに、彼女と別れた。彼にとって、名前は不要だったし、住所も不要だった。すべて夢の中の出来事のようなものなのだ。何も聞かないほうがかえって印象深い、もちろん彼も自分の名前も、住所も、電話番号も言わなかった。甘酸っぱい感傷を残して別れた。彼女の物悲しそうな面影と香水の香りが、彼の中に漂っている。もう二度と会えないだろうけれど、滅入った気分はどこかへ行ってしまった。

第4章 再会

 暴漢にあってからやめていた早朝ランニングをまた始めることにした。あの日は本当に肝のつぶれる思いをする日だった。殺されそうになるし、背中から翼は生えるし。驚きと恐怖のためにやめていた早朝ランニングだったけれど、あんなことが度々あるわけはない。もし、そんなことがあってもこれからは、飛ぶことができる。もう夏になっていた、彼は、以前と同じ様に中之島公園で柔軟体操を終えて、軽くジョギングをする。通りかかった橋のたもとで、数人に囲まれて困っている女性を見かけた。抱えた子犬が吠えている。彼は、彼女の方へ走って行った。その女性は忘れるはずもない、つい1週間ほど前に酒場で出会ったあの子だった。彼女もびっくりしたようだ。そして彼に救いを求める視線を向けた。彼は男たちを睨みつけている、その目は鷹のように鋭い。視線に圧倒された男たちはつまらなそうに去って行った。

 にわかに出勤してきた人たちで賑わいだした御堂筋の官庁街を抜けて、心斎橋へ歩きながら2人は話した。彼は、以前から早朝ランニングで毎朝中之島公園を訪れていたこと。ちょっと前、事件があって以来早朝トレーニングをやめていたけれど、最近また始めだしたことなどを話した。「事件って何?」と彼女に聞かれたが、自分の異常な体験を言うわけにはいかない。本当は誰かに話したくて仕方がないのだけれども、言ったが最後、化け物扱いされて嫌われてしまうだろう。そもそも信じっこない。彼はうつむいてしまった。「悪いことを聞いてしまったみたい」「いやいいんだ、申し訳ないけれど言えないんだ」

 中之島公園で再開して以来2人はよく会うようになった。彼女は中之島公園のそばに家があること、音楽が好きなこと、最近20歳の誕生祝いに子犬を買ってもらったこと。その子犬を連れて近くの中之島公園へ散歩に出かけるようになり、彼と再会したことなどを話してくれた。お互いに話をすればするほど、会えば会うほどに不思議に惹かれるものを感じ合た。彼は、彼女に自分の秘密を打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。

第5章 驚き

 御堂筋のイチョウが色づく頃、彼は、彼女を下宿に誘った。本や自作のオーディオが狭い部屋に溢れている。しばらくして彼は、ギター小脇に歌いはじめた。そして、自分の秘密を歌に託して打ち明けることを思いついた。「俺は空を飛びたいといつも夢見ていた。そんなある日突然、背中に羽が生えて、空を飛ぶことができるようになった。でも、翼のある姿は人から見ればかたわもの、怪物扱い、翼があっても、俺は自由に空を飛び回れない。愛する彼女がこんな俺を見たらどう思うだろう。あああ・・・」その即興の歌を歌い始めると、彼女は緊張した表情を浮かべ、ついに泣き始めた。「どうしたの?何か気に障った?」何も言わずに首を振る彼女。彼の切実な気持ちが伝わったのだろうか。そうではないだろう。彼は優しく彼女を抱きしめた。そっと唇を合わせる。彼女も優しく応えた。

 彼女が泣いた理由は分からない。彼女のことを深く思いやる余裕もないまま、自分の秘密を、はっきり教えてしまおうか、やめようか、思いあぐねている。彼は彼女との間に芽生えた信頼のような感情にすがるような気持ちで。抱きしめていた彼女をそっと離すと、上着を脱ぎ背中を彼女に向けた。「あっ」と驚く彼女。「ごめんよ、驚かせてしまって、でも君に知って欲しかったんだ。さっきの歌は俺のことなんだ」彼は彼女を見つめた。彼女は青ざめ、思いつめた顔をしている。しばらくして、決心したように、彼と向かい合って立ち上がり、静かに上着を脱ぎ始めた。可愛い胸を手で覆いながら、背中を彼に向けた。その白い背中には、美しい白鳥のような翼が音もなく出現した。

 

鳥の人誕生編 完

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