2025/3/13

幼い頃からの躾のせいか、どうも物事をよい方に解釈する癖がある。いわゆるプラス思考というやつだが、言い換えれば能天気とも言える。
子供のうちはそれでもよかった。だが、いいかげん歳をとると、そうもいかない。ある日、「お前はお世辞もわからんのか」と言われたことがある。お世辞くらいわかるつもりだったが、どうやらそうでもなかったらしい。思えばこれまで、お世辞と知りながら、それを好意的に受け取ってきたのだった。だが、そればかりではどうにもならないこともある。相手の気持ちを汲み取れなければ、会話というものは成り立たないのだ。
言葉だけではない。敵意や悪意というのは、表情や口調の端々にも現れるものだ。若い頃はそうした微妙な変化にも敏感に反応して、時には大人気ない振る舞いをしたこともある。いや、いまでもそうかもしれない。だからこそ、好意的に解釈するというのは、一種の護身術でもあったのだろう。
この頃は人と接する機会がめっきり減ったせいか、ときおり自分の反応に驚くことがある。歳をとって丸くなったのか、それとも単なる頑固になったのか、自分ではよくわからない。願わくば、もう少しどっしりと構えていたいものだが。
私は自分を概ねポジティブな人間だと思っている。だが、それは裏を返せば、ネガティブなことを感じているからこそ、あえてそうしようとしているのかもしれない。実際、文章を書いてみると、自分の癖がよくわかる。「〜だが〜」という形が多いのだ。まず否定的なことを述べ、そのあとで帳尻を合わせるように前向きな結論を持ってくる。だからだろうか、文章全体にどこか否定的な響きが残る。それはわかっていても、なかなか直せるものではない。
感受性の話から少し逸れてしまった。だが、もし感受性というものが、心に浮かぶさまざまな思いのことを指すのならば、私は昔から変わらず、それを抱え続けている。日々、あれこれと思いつき、駄文を書きつける。これほど面白いことはない。いくら時間があっても足りない。若い頃と少しも変わらない自分を、そんなとき、ふとおかしな奴だと思う。
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