伊勢湾台風
isewanntaifuu
第1章 プロローグ
昭和34年9月26日土曜日
夕方から夜半にかけて東海地方を中心に来襲した超大型台風、未曽有の惨害を残して日本海へ抜けた。記録によると、室戸(昭和9年)枕崎(昭和20年)台風に次ぐ超大型のものであったが、台風圏は前2者をしのぎ台風史上空前のものと言われている。
東海3県(愛知、三重、岐阜)の被害は
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死者 4,268人
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行方不明 450人
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負傷者 35,991人
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家屋、全・半壊 164,719戸
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家屋流出 4,778戸
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家屋床上床下浸水 197,409戸
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被災者概数 1,286,138人
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その他、田畑、道路の冠水、埋没、木材流出(熱田区白鳥町に大貯木場があった)船舶損失等々 、膨大な被害の数字が記録されている。 (11月30日現在)
台風の経路
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26日午後6時ごろ潮岬に上陸
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同7時頃熊野市西方
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同8時頃名張市上空通過
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同9時頃桑名市西方
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10時頃大垣市
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その後、伊吹上空付近から日本海へ時速70キロメートルのスピードで抜けている。
台風の勢力
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名古屋市西方を通過した午後9時25分中心気圧は958ミリバールを観測している。
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最大風速は37メートル
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瞬間最大風速は45.7メートルを記録した。
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この進路に当たった観測所の風速計が60メートルを超えて壊されていた所もあったと言う。
私たちの住居は、このとき、名古屋市南区戸部下町にあって、風水害の渦中にあった。私たちは妻の親の家の裏の6畳一間の離れに住んでいた。私は30歳、妻26歳、長男2歳半、母屋の義母57歳、義妹22歳であった。
第2章 台風接近
この日、午後2時半ごろまで、気象状況を気にしながらも研修所の教室で卓球の練習に汗を流していた。明後日に迫った、国家公務員共済組合名古屋地区の卓球大会の最後の仕上げをしていた。この頃から、台風の接近を知らせるかのように、突風が電線をうならせていた。風の音にせき立てられるように、教室の戸締りを平素よりも厳重にして帰路についた。午後3時だった。名古屋矯正管区(中区老松町)へは、電車道(名古屋市電)に沿って北方へ6キロメートルの道程を自転車でいつも通っていた。所要時間は約40分、この日は、 1時間余もかかってやっと家へ着いた。風の抵抗は、平常通りのスピードを出させてくれなかった。昼のラジオニュースで、まれに見る超大型で、しかも東海地方直撃の公算が大きいと報じていた。それでも、私の記憶の中では、名古屋地方を直撃されたことがない。いつもそう言われながらそれて行く。多分今回もそうなるだろう。そんな気持ちが根強かった。私だけでは無い。この地方に住む人々は、ほとんどの人がそう思い、信じていたようだ。だから、私たちも午後3時までも練習しておれたのである。が、 1時間余りの自転車をこぐ間に今回の台風はただごとでは無い気配を感じさせられたのである。
街路樹のざわめきも尋常では無い。まともにぶつかってくる風が痛い。電線のうなりが不気味だ。山崎川に架かる呼続大橋を渡って、すぐ右に折れるともう一度その川に架かる木造の祐竹橋があった。ここを渡って堤防に添って坂を下り国鉄東海道線を超えると戸部下住宅がある。いつも、ここまでくると家に近づいたことでほっとする。ところが、この日は、毎日ここを通ながらも考えたこともないことを想像してしまった。その川底と住宅地の高低差である。ほとんど同じか、それよりも低いかもしれない。海までは、かなりの距離があるこの地帯でも潮の干満によって水位がすごく上下している。その川が満潮時に、大雨が降ってもし堤防が決壊したら、住宅地帯は床上浸水が必至ではないか。「あ、あ、ここは危険地帯なのだ」いちどもそのようなことがなかったのに、この時ばかりは予感が大きく膨らんで心の中に『危険』信号となって居座ってしまった。今度だけは、 「大変なことになるかもしれないぞ…」
それからは、夢中でペダルをこいだ。農家の庭の大木が激しく揺れ、不気味にうなっている。家屋の補強をしているらしいハンマーの音が住宅地のあちらこちらから響いてくる。北上してくる嵐の気配を地上の諸々のものが感受しているのだ。私も、家へ着く早々真先に南側にあたる玄関のガラス戸にありあわせの板を打ち付けた。古い市営住宅は何となくいやな感じがして不安である。雨戸を閉め、ガラス戸の錠をがっちりと締めた。停電になるかもしれない。夕食を早く済ませよう。懐中電灯とろうそくの準備をしよう。万一水が出たら、あのアパート(100メートルほど離れたところにある2階建ての群棟があった)に避難しよう。貴重品をまとめておこう。それにしても義妹がまだ帰ってこない。同じ屋根の下に住む身内の者だけに、気がかりである。土曜日の午後である、町のデパートか、映画館か、地下街にいたらこの切迫感はわからないだろう。帰りのバスが電車が動かなくなったらそれこそ大変だ。風の強さが、風の重さが、家の中にいても身体中にずしん、ずしんと応えてくる。携帯ラジオは聞き取り難いが、間違いなく東海地方へ向かって北上していると報じ、十分なる警戒と万一に備えての心得を呼びかけていた。
第3章 台風来襲
暴風圏に入った。
落ち着かない夕食が終わった頃、やっと義妹が帰ってきた。やはり映画を見ていたので、これほどになっているとは思っていなかったという。横殴りの雨はバス停から家までの間で全身ずぶ濡れにしてしまった。午後7時ごろ停電になった。暗闇になると心細くなる。母屋の義母や義妹のことも気になる。私たちは懐中電灯とろうそくと携帯ラジオを持って母屋へ移った。身内5人が暗いろうそくの灯の下でさらに強くなりつつある風におののきながら台風の去るのを早かれと祈った。打ち付けるような烈風と雨は、家の屋台から根こそぎ浮き上がらせるような圧力である。やがて、玄関の部屋に雨がポタポタと落ち始めた。
風雨が瓦を吹き上げ、瓦をずらしたのであろう。バケツや洗面器を総動員したが、それも役立たなくなった。激しい雨漏りは部屋全体に及んでまるで屋外にいるのと変わりがなくなってしまった。かろうじて奥の部屋は屋根の向きが北側のためにか、まだましだった。家族はそこで小さくなってろうそくの明かりを守った。玄関の雨戸とガラス戸がギリギリと音を立てて弓なりにしなりだした。ガラスが割れたら、窓が外れたら、家の中を風が吹き荒れるだろう。私は、雨合羽を着込んで風呂の薪ように買い込んであった木々の中から。丸太棒を持ってきて雨戸やガラス戸の補強に努めた。6畳2間と離れだけの小さな家ではあるがこの家を砦に風雨と戦い、耐えて家族を守らなければならない。そして、万一のときには、あのアパートへ避難しよう。現実となりそうな予感を皆で確認したことで心は少し落ち着いてきた。ビュンー、バユンーすごい風圧である。ザァー、バリバリ、ザーザーすごい雨である。腹の底まで響いてくる圧迫感である。
ついに外側の壁板が吹き飛ばされた。雨はその中の壁土を叩き落とし始めた。壁の一角がほんのり明るくなったかと思うと、こまかい竹が現れだした。なんという荒々しさだ。何と言う力だ。風雨がまともに部屋の中へ吹き込んできた。私は夢中で押し入れの板戸を外してそこへ当てた。その上を丸太棒で押さえた。これ以上激しくなったら、これ以上長い時間吹き荒れたら、もう施すてがなくなってしまう。時間の感覚はわからない。猛烈な風の力と、雨の激しさに家の中をカッパを着たまま右往左往していた。ふと風の一息するのを感じた。我に戻って携帯ラジオに耳を当てた。台風の中心が伊吹山の近くへ行ったらしい。雨も少し弱まった感じだ。
外の気配に人のざわめきの声が聞こえるようだ。半鐘の鳴るのがかすかに聞こえた。外の様子を知ろうと思って土間へ足を下ろした瞬間、今度は背筋を冷たいものが電光のように走った。予感がついに現実となって襲ってきた。「水が出た。膝のあたりまで来ている。早くアパートへ避難しよう」思わず叫んだ。たまたま、話し合っていたので、何も躊躇することはなかった。義妹は独り身の身軽さ、いちばんに裏口から出た。妻は子供を背負って、貴重品の袋を腕に抱えた。その妻を抱えるようにして家を後にした。通りに出て私たちの家が道路よりも約50センチメートルほど高いコンクリートの土台の上にあったことに気付いた。水位は腰の上まで来ていた。義母は神様のお守りを取りにまた家へ戻ると言う、平素の信仰を思うと止めることもできない。 しかし、それを待っておれないほど、水は迫って来る。アパートまでには、深い溝があった。柵があった。それをどうして乗り越えて通ってきたのだろうか、水の中を泳ぐような格好で、ただひたすらアパートを目指して急いだ。アパートの階段に足が着いた時、全身の緊張が抜けていくような、無気力感を感じた。「助かった。」そのことだけが、その時の気持ちだった。気がつくと胸のあたりまで水が付いていた。びしょ濡れである。もう少し遅れたら、ここまでこうしてたどり着けただろうか、ぞーっとする。
階段を上って、 二階の廊下に立つと、今度は義母のことが気になりだした。私たちより後から来たはずだ。大丈夫だったろうか、もしここまで来れないで途中で何かあったら、私は責任の重さを感ずる。妻と子供を守るだけではない。同じ家に住んでいる身内である。しかも、男は私だけだ。義母の義妹の安全を守る義務を感じていた。しかも、結果的には、危険の可能性が大きかった避難行を私が提案したのである。万一の事が合ったら、申し開きのできないことになってしまう。万一の、万一のと言っていたその万一が次々と当たってしまったこの時、台風の恐怖とは異質の何かが、頭の中をカァーットさせた。暗闇の中を夢中であたりを見回した。「おばあちゃん、おばあちゃーん」幾度も叫んだ、あたりをかけた。幸いにも、意外と近いところで義母を発見することができた。しかも義妹もその声で寄ってきた。
第4章 アパートの避難
家族全員の無事を確認すると、次は水に濡れた子供のことが心配になってきた。階段から離れた奥の玄関戸を叩いた。「子供がこのままでは肺炎になるかと心配です。申し訳ありませんが少し休ませてください。 」と頼んだ。Tさんと言う私たちと同年輩くらいのご夫婦は、気持ちよく家の中へ入れてくれたばかりか、子供と私たちに合う下着類を出してくれた。「洗濯がしてありますから、どうぞ、どうぞ」と言われ涙の出る思いだった。ただ好意に甘え頭を下げるしかなかった。さらに、「台風は去っていったが、水が引かなければどうしようもないでしょう。」「ゆっくりおやすみなさいと」布団まで敷いてくれた。子供はそこに横になるともう深い眠りに入っていた。私たちの他に、中年の女性と、おじいさんが部屋へ入ってきた。おじいさんはアパートの近くでは立てなくなり泳いできたと言う。廊下に出てみると一階の部分は水の中であった。避難して階段付近にいた人たちも、近くの部屋へ入れてもらったらしく廊下に人影はなかった。空を見上げると風雨は治まり、雲間に星が瞬いていた。なんと美しい星だ。暗闇の中だけに星の美しさがひとしおである。それに引き換え、眼前に広がる地上の惨状は、闇の水の中にあえぐ地獄図ではないか。
家に入っても、横になっても眠ることができない。お互いが、風の恐怖を思い出したように語り、それでもこんなときには、思わぬ勇気と、力が出るものだと、今更ながら、台風と戦った事々を振り返って、人間の不思議を話しあったりした。
空が少し明るくなってきた。もう一度廊下に出た。一変してしまった景観であった。散々たる景観である。家々は流出を免れたが、屋根だけが水の上にあって、あっぷあっぷとあがいている。足元まで来ている水は、まさに「味噌も糞も一緒くた」である。いろいろなものがぽかぽか浮いている。汚いと言うよりも不思議なものを見る思いである。昨日まで誰がこんな光景を予想しただろうか。
Tさんは、水道と都市ガスが平常通りであることを知ると、朝食を作ってくれた。Tさん家族4名、私達家族5名、そしておじいさん、中年の女の人、合わせて11名分である。車座になって、それをいただいた。炊き立てのご飯と味噌汁のなんとおいしいことよ、忘れていた空腹が満たされ、体も心も温めてくれるものだ。その上、風呂まで沸かして入れてくれたのである。後で分かったことであるが、このような待遇を受けれたのは私たちだけだったようである。階段近くの人たちは、その近くの部屋へどっと入り込んで、ただ休ませてもらっただけらしい。
大名古屋市のことだ。南部地帯の1部の浸水ぐらいすぐに救援できるであろう。炊き出しもすぐにあるだろう。大方の人たちは私も含めて、そう期待していた。何度も廊下へ出たり入ったりした。朝の9時ごろから、ヘリコプターが2機3機と飛来して頭上を南へ南へと去っていってしまう。救援物資でも運んできたかと思う人々は。屋根の上から手を振って合図を送ったが何の反応もなかった。そして、この頃になって、自分たちの周りだけを考えていたことに気付いた。南のほうは海だ。ゼロメートル地帯も多い。ここよりも、もっとひどいところがあるのだろう。うらめし気にヘリコプターを見送った心根が恥ずかしいと思った。
少し水が引いた昼頃浮いている畳の上へ乗ってみた。私1人が乗っても浮いている。近くに浮いていた物干しざおを拾い上げそれでそろりそろりと漕いでみた。目標は自分の家だ。様子が見たい。アパートの2階から屋根だけは見えた。部屋の中はどうなっているだろう。やっと家に近づいたら、水が多くて家の中へ入れない。玄関側の堀がなくなっていた。壁はほとんど落ちている。雨戸とガラス戸がそのまま残っていた。屋内は、家財道具類が乱雑にひっくり返っている。今は手の下しようもない。去り難い気持ちだけれど、一巡してアパートへ戻るしかなかった。夕方兄が炊き出しの握り飯を持って水の中を来てくれた。午前中に国道沿いに呼続大橋近くまでスクーターできて様子を見た後、一旦家へ帰り炊き出しを作り、水につかっても良い装備をして出直してきたという。そのころでも胸の近くまで水があった。水も汚れてきた。悪臭すら発散しだした。こんな中を人に尋ね、訪ねてここに避難していることを知ってきてくれた。誰かの呼ぶ声に廊下へ出た。兄がすぐそこの水の中で手を振りながらこちらへ来るではないか、途端に熱いものが胸に込み上げてきて、その姿がぼやけてしまった。
楽園町の両親や身内の者たちは皆無事であった。玄関の壁が少し破損したとのこと。そして、兄から名古屋市南部地方から伊勢湾岸地帯は、もっともっとひどい災害らしいと知らされた。舟で行かねばとても行けない程であるとか、
また国道は、水に浸りながらもスクーターが通れた、この付近は、水害地の端であるようだとも知らされた。兄は、Tさん夫婦によろしくお願いしますと礼を述べてまた明日来てやるからと言って水の中を帰って行った。3日目の朝になって、やっと1世帯に2個ずつの握り飯が救援物資として配給された。私たちは、幸いにして食べものは充分だった。少しずつ減って行く水位の頃合いを見て、仲人のKさんの家まで、 配給された握り飯を持って行ってみた。昨日から、何も食べていないが、これさえあれば大丈夫さと横にある一升瓶をさして笑っていた。浸水を知ってから、押し入れにあがり、そこにも水が迫ってきたので、天井を破り、ついには、屋根をしたからはがして上に出た、それ以上に水が来たらもう終わりだと思っていたとか、家族は今朝親類へ預けたそうだ。今は、何もすることができないので、こうして酒でも飲むしかないと押し入れの上段の棚にどっかりと座っていた。この住宅地の人たちの大半は、押し入れから天井へ、そして屋根へ避難したそうだ。私たちの隣のKさんも、そうしたそうだ。それ故、水のひかない家の中へ戻れず留守番が残った外は、早々に身寄りを頼って避難していった人が多い。
浸水の原因は、海からの高潮で各所の河川が氾濫し、堤防が決壊したのである。山崎川も随所で決壊した。そして、ゼロメートル地帯は、瞬く間に水に飲まれてしまったのだ。しかも、決壊した堤防を仮締めし、ポンプで排水しなければ完全に水はひかないらしい。今は、潮の干満に従って水位が変わるのである。そして、当分の間、こんな状態が続くだろう。
Kさんの家を見舞った後、再度自宅の様子を見に立ち寄った。この住宅地帯は、以前倉庫が立っていた跡地であった。そのため、倉庫の土台がそのまま残され、その上に家が建てられていた。道路面から50センチメートルほど高いコンクリートの土台は、これのない裏側の家並みよりもその分だけ床が高く、水のつかる分が少なく済んだことになった。家へ入ると床面すれすれに水が残っていた。畳と床板は、水の勢いで持ち上げられ、水が引いて乱雑に沈んだのだろう。その上に整理ダンス2つと鏡台は前向きに倒れていた。和だんすは壁にもたれるようになって立っていた。テレビと電蓄は、そのままの姿で水をかぶった跡を残している。押入れのふすまは外れて倒れ紙はベロベロにはがれて骨を出していた。その中の衣類などは水をしっかりと含んでうずくまっていた。その他の小物類は乱雑に散らばっていた。母屋のほうも大差ない惨状である。幸いにも、外に面していた戸類は施錠がしっかりしてあったためかそのままの形で残っていた。裏口側の塀も傾きながら残っていた。調べると和ダンスの上置き部分と押し入れの上段の一部は水の難を免れていた。水道の水は、水の中でも出た。ガスは止まっていた。まだ、これらのものをどうすることもできない。押し入れから衣類をだしても、ずしりと水を含んでいる。水につかった食器類も洗って収納する場もない。結局半分水につかっていた押し入れの中の布団を掘りの横板をはしごがわりにして屋根に登り干してきた。近所の家でも屋根に衣類や、布団類が広げられていた。水の中の表通りは、安否を気遣う人たちが行き来しはじめた。だんだん黒ずんで汚れてきた水の中を初めはズボンをまくり、スカートたくしあげて歩いてきた人たちもそれ以上の水深まで来ると、諦めたように、そのまま水にぬれながら歩いていた。
兄は、今日も炊き出しのおにぎりを持ってきてくれた。静岡の義兄も遠路交通網の乱れの中を難儀して様子を見に来てくれた。羅紗店の義兄も内田橋から道徳方面は水が多くて通行できず、呼続大橋の方へ大迂回して来てくれた。「でも、皆が無事で元気でこうしてお世話になっている様子を見て安心した」と言って、それぞれ帰って行った。
この夜、雨が降り出した。屋根の上に干してきた布団が気になる。満潮時で水が高くなっていた。衣類のぬれるのが惜しい、替わりがないからだ、真っ裸の上に雨合羽を着た。義妹もついてきて手伝うと言う、最小の衣服を身にまといついてきた。暗闇の中で塀の板を足場によじ登った。下にいる義妹に布団を受け取ってもらった。暗いからいいものの、下から見上げられたら、大事な物も丸見えだ。しかし、そんなことを考える余裕もなく、押し入れの上段に収めて、早々とTさん宅まで帰った。
次の日も水は変わらない。当分の間、潮の動きに連動して上り下りがあるだろう。玄関にひっくり返っている、自転車を調べてみると、なんとか乗れそうである。これに乗って息子だけでも楽園町へ預けてこよう。水の一番少なくなったときを見計らって、息子を背中におんで、ズボンを首に巻きつけ、下は海水パンツ1つで自転車を押してその中を歩いた。国道まで行けばズボンがはけるだろう。ところが、東海道線の踏切で父にばったりと出会った。スクーターで様子を見にしたと言う。2言、3言話しているうちに、無性に涙が出てきた。人の往来のあるところで、子供を背負いながら、大の男が涙ぐむのは女々しい図だと思いながらもどうする事もできない涙だった。被災の打撃と悲しみを親に甘えたかったのであろうか。父は、息子を背負って、楽園町へ帰っていった。
その後へ管区のHさんとYさんが毛布をたくさん持って見舞いに来てくれた。この時一緒に持ってきてくれた水筒のお茶が乾いていたのどにとても美味しく感じた。そしていろいろな情報を聞かされた。
名刑のT看守部長は家族全員行方不明になってしまった。4月まで名刑のクラブの管理人をしていたが、やっと念願の自分の家を柴田に持てたと喜んで移転したのに、海の近く、高潮に家もろとも海へ流されてしまったようだ。その後、会計課の職員が手分けして毎日舟を使って、捜索しているが発見することができないとのと。Tさんは私が会計課に勤務していたときの直接の上司であった。正月に呼ばれて、奥さんにお世話になったこともあった。いろいろな面で先輩あり、頼れる人であった。心から冥福を祈る。
Sさんは名刑の工場担当時代ともに勤務した先輩である。この人は、当日臨時夜勤をしてよく朝水の中を苦労して家へたどり着いたら、家も家族も流出していた。それから、同僚も力を合わせて捜索してくれたが家族の1人すら見つけることができず。今は呆然として放心状態であるとか。管区の電話交換手のHさんの家も、完全に水につかってしまった。今は手のつけようがなく管区の研修所の寮へ妹と世話になっているとか。
名刑のHさんは新婚一年目頃の被災であった。私たちの家よりも、もう少し南に住んでいたので被害がさらに大きかった。新しい嫁入り道具の大半がだめになってしまったとか。
その他、南部地方に住んでいた名拘、名刑の職員たちは、大なり小なりの被害を受けたと聞かされた。また、水に浸からぬ所でも風のために被害に合った人達は数限りが無い。なんという、自然の猛威であろうか。想像を絶する力であったと言うしかない。
家へ行っても、何もできない状態が続いた。それでも家へ寄ってみたくなる。水道の水は出る。何かをやりたい。
レコードケースを開いてみた。水は残っていないが、ヘドロがべっとり付いている。水でそろりそろりとヘドロを洗い落としてみた。しかし、長時間水につかった表面は針溝がペコペコになって傷んでいる。これでは、良い音を再生することが不可能だ。大事にしていたクラシック音楽のレコードを1枚も助けることができなかった。本箱中の本を調べてみた。しっかりと詰まっている本は、中ほどは水を寄せ付けず、元のままであった。しかし、外側の表紙や、ふちの部分はヘドロの水がしみて黒い「シミ」になっていた。世界文学全集、シェイクスピア全集等々結局断念するしかなかった。日本切手は使用済みも含めて、初期のものから現在までほとんど収集していた。それが水とヘドロで汚れてしまった、助けられそうなものは、 1枚1枚水洗いしてみた。未使用の完全品もノリが取れ、汚れてダメだ。それでも、形が残っていれば残したいと丁寧に洗ってみた。惜しいと言えば全ての物が惜しい。
第5章 楽園町の家へ
次の日、水が引いて家の復旧ができるまで楽園町の実家へ世話になることになった。近所の人たちも日を追って身寄りを頼って去って行った。私たちも、この日干潮時の水位の低くなった時をねらって、わずかな家財道具(ほとんど水に浸かったもの)を運び出した。借りて来たリヤカーで国道まで運び、そこで父が都合してくれた小型トラックに積み込みむ二度手間をしながらの運搬であった。和だんす、整理ダンスは水を含んで引き出しが全然開かない、背後の板や横板を剥がして衣類を出した。ここにも、ヘドロがべっとりと残っていた。衣類を絞って風呂敷に包んだ。鏡台の引き出しは開かない。鏡も割れている。食器戸棚も引き戸開き戸は開いたが引出しは駄目だった。結局これらの家具類は、壊して中のものを出し、後は放棄せざるを得なかった。この日、Kさん(妹の夫)はパンツとシャツ姿に長靴を履いて、大物を背負って水の中を往復する大活躍をしてくれた。父も、兄も毎日のように私たちのために、いろいろしてくれた。身内のありがたさをこれほど深く感じたことはない。ただただ頭を下げるだけだった。
荷物が出てから妻は、父のスクーターの後に乗せられて楽園町へ行った。私は、夕方まで家の中のヘドロを掃き出したり、床板を洗って立て掛けたり、畳を干したりした。しかし畳だけは潮を含んでなかなか乾燥できず、とても再使用はできそうもなかった。後日捨ててしまうことになった。水をたっぷり含んだ畳は実に重い、このときは、それを助けたい一心で陽に当てたり、風通しを良くするため立て掛けたり努力をした。このほか、いろいろな無駄な労作をしたことになってしまった。思えば、家族が全部無事であったことがまだ幸いであったと言わねばならない。後日談になるがタンスの上に乗っていて助かったチェコ製のバイオリンを、運搬の途中リヤカーが傾いて水の中に落としてしまった。ニカワが溶けて楽器は分解してしまった。それを福井へ転勤してから、その道の業者と親しくなり、話をしたら「見てみましょう、直す価値があれば直してみましょう」と言うことで、実家に預けてあったバイオリンを持ってきた。価値があると言うことで修理してもらった。ところが、その後あまり弾くこともなく、ほこりをかぶって部屋の隅っこに置き忘れられる存在になってしまった。
話を元に戻そう。噂によるとこの頃、空き家へ変な人が住み着いたり、泥棒が入って、家の中をさらに荒らされるとか、空に近い家でも、戸締まりだけはしっかりしなければと、楽園町へ引き上げるとき、もう一度狭い家の中を廻ってみた。壁は水へ浸かったところから落ちている。襖や障子は骨だけ残って立て掛けてある。壊れたタンスや、食器戸棚などが隅に無残な姿を横たえている。床の下には、まだ水がひたひたと悪臭を放ちながら潮の動きに従ってゆれていた。日が暮れて、人気もなく、電灯も灯らない家並みを見ると廃屋とは、こんなことを言うのであろうかと思った。
Tさん宅には短い期間であったが本当にお世話になった。楽園町へ引き揚げる日、妻とともにお礼に行ってきた。避難させてもらった近所の人々の標準額を聞いて、わずかながらの気持ちを添えてお金を置いてきた。金の高で済ませるものではないが、心温まる親身の世話に接し、ここでもただただ感謝の気持ちいっぱいで頭を下げるのみであった。
携帯ラジオは、水洗いして電池を入れ替えたら聞こえるようになった。それを持ってパンツとシャツの上に雨合羽を着て、自転車をこいだ。その自転車も水に浸かってペダルが重い。決壊した山崎川を上流に向かって楽園町まで約1時間、ラジオを聞きながら暗くなって来た道を実家へと急いだ。
実家は両親、兄夫婦その子供1人、弟妹1人づつ、私たちの3人を入れると10人の大家族になった。夕食は、賑やかであった。その世話をしてくれる母と義姉は大変だった。しかし、ここでは、電灯がつき、テレビも見える。風呂も入れる。勤めにも出られる。平常の生活が営まれている。義母と義妹も羅紗店の義兄の所へ身を寄せて行った。
この日から妻は、衣類の洗濯が始まった。裏から、水道のホースを引っ張り、側溝のある表通りに、タライを置いて、水に浸かった衣類を洗うのであった。ヘドロは、折り目に浸透して、なかなか泥気が取れない。洗い、そしてすすぎの連続であった。毎日この作業が続いた。被災地でこれをすれば特異では無い、ところが平常の生活をしている地域である。台風のことは日に日に薄らいで行った、この近所では、休日に表を通る人々は、遊びや買い物に行く人たちの晴れ姿が多い。七五三の頃には、晴れ着姿の母子が通る。被災者の悲哀を感じ、やるせない気持ちで見送ったのであろう。こんな気持ちで、しかも1品でも多く助けたい気持ちで一生懸命洗ったものも、結果的には、使用に耐えないものがたくさん出てしまった。
10月6日、南区役所へ被災証明書をもらいに行った。家屋半壊、家財又は資材全部減失である。そこで、住所を言えば「ああ、あの地域はこうですね」と言って、右のような証明書を発行してくれたのである。このあと、南区役所の裏の広場へ廻った。累々たる屍の行列であった。棺桶が1つ1つその横にあった。屍にはむしろがかけてあった。
人々は、その1つ1つをのぞき見ながら、身内の人を探していた。泣き崩れる人もいた。身元が分かりリヤカーに乗せて引き取っていく人もあった。何と言う、悲しい無残な光景であろう。また、少し離れたところには、遺留品群があった。衣類の切れ端も収集した場所が記され、たくさん張り出してあった。私の身内には幸いにもその心配がなかった。けれども他人事とは思えぬ悲しさが胸を打つ。亡くなった人たちの冥福を祈りながら、逃げるようにしてその場を去って来た。思えば、戦時中の昭和30年6月の名古屋空襲の日、防空壕によってかろうじてその難から逃れたものの、 壕を出て自分のいる周りに横たわる死傷者の多さにおののいた。そして幾日もたたぬ日、舟方町の貯木場広場で亡くなった人たちが、この南区役所の広場と同じように並べられていた。しかも、このときは爆弾のため手や足や顔のない人々をたくさん見た。戦争の惨さ、虚しさを実感として感じた。それと同じような光景を、今度は自然の猛威の前に屈服した人間の悲しみを体験しようとは、・・・
第6章 勤務に出る
1週間勤務を休んだ。実家に世話になって一応落ち着いたので役所に出ることにした。予算管理課の業務は多忙だった。業務が山積して待っていた。各施設の被害は、予想外に大きく、広範囲にわたっていた。次々に送られてくるその被害調書の係数を裏付けし、副申を添えて本省へ提出する。そこまでに、書類不足、説明不足、添付書類の不備、追加等々、不備を補正するため、その都度施設へ電話を入れる。1件の書類を整えるのに日時と手間がずいぶんとかかる。また被災職員の共済関係の事務処理も重なってあった。水害ばかりでなく、風害による被害者の多さにも驚かされた。この確認も前者以上に手間がかかる。管区支部と管内施設の全部の支部に目を通し、確認しなければならない。 1人で処理するにはあまりにも多い事務量だった。平常時の仕事を夕方までやって、それからこの台風関係の仕事にかかるのである。10月分の給与計算事務も待っていた。毎日10時、11時過ぎの帰宅が続いた。俸給日の支払いも無事終わった。それぞれの書類提出も済んだ。この結果が本省から戻ってくるのはなお日数がかかるであろう。その空間をまた休暇をとって家の修復に当てることにした。10月18日から、再び1週間の休みをもらって戸部下の家へ通い始めた。
後日被災に対する施設の復旧予算は大分査定されながら配賦されてきた。共済組合の被災者の被害見舞金も決定してきた。指定の最高は3ヶ月分であったが、今回は特別付加が付いて2ヶ月分加算されて来た。当時の私の月給額は1万4,700円であった、 7万3,500円が個人口座へ振り込まれてきた。失ったものは大きかった、復旧費も思わぬ出費があった。しかも、これらを金銭で補い換算できるものではないが、見舞金はやはりありがたいことであった。管区職員からもたくさんの見舞いをいただいた。休んで迷惑をかけ、世話をかけ、さらに見舞金までいただく事は心苦しく申し訳なかった。管区長の奥様からも、妻へと2,000円(当時では相当な額であった)いただいた。
人々の温かい心情に感謝するばかりである。
戸部下の家の修復が終わった後、私と妻は管区の人々にお礼に回った。この時、お礼のしるしは、管区長、各部長に6個入り石鹸、 1箱ずつ、その他の職員には2個入り石鹸を配った。私たちのできた精一杯の感謝のしるしであった。妻は初めての管区であり、緊張で大変だった。その上、石鹸を松坂屋から管区まで運んできたのである。気苦労は並大抵のことではなかったろう。2人とも若かった。1つの区切りとして、お礼に廻る事はぜひやらねばならないことだ。
第7章 復旧
復旧には、日時がかかった。あまりにも、広範囲の地域の被災は、簡単になるものではなかった。この復旧と救援には、警察、消防、学生その他各種団体がそれぞれの立場で活動したが、自衛隊は、その機動力と人員において特筆すべき力を発揮してくれた。人命の救助、物資の輸送、死体収容、集団避難の輸送、道路橋梁の補強改修、海岸堤防の潮止め作業、河川の決壊個所の仮締切作業などなど、また伝染病予防のための消毒作業、ヘドロ廃棄物の処理など、どの1つも苦労の多い、地味な作業であった。当時の記録によると1日平均6,000人の自衛隊員がこれに当たったとある。水筒のお茶と握り飯を持って、被災地で黙々と活動してくれた若い自衛隊員の人たちに、誠に誠に有り難うございましたと申し上げる。
戸部下地区は10月11日ごろ完全に水が引いた。そのあとの道の両側には、各家から出された廃棄物とヘドロが山積みにされて、異様な悪臭を放っていた。前に廃屋の町を感じたが、この景色は汚物の町とでも言うべきか。どこの家も、使用不能となった家具、寝具、衣類、畳、その他の雑品が、ヘドロとともに汚れきって積み上げられてあった。私も最後まで迷いながら、ついに畳を道路に出した。長時間塩水につかり、それを含んだ畳はとても使用できるものではなかった。動かすのも重い。ただいつ新しい畳が手に入るか、不安であった。そのため、何とかして使えるものならばと言う思いで残して風を入れ、陽に乾かしてきたが徒労であった。図書も、レコードも、同じ思いでなかなか諦めきれず、この時になってやっと諦めて投棄した。
18日ごろ自衛隊の消毒班がこの地域一帯をDDTによる消毒をしてくれた。各家は開放しておくようにと回覧が廻った。ジープに積まれた大型噴霧器の筒口は家の中の奥の奥まで届くものすごい勢いでDDTを散布していった。何も彼も真っ白にしていった。次の日、自衛隊のダンプとショベルカーが1組になって、積み上げられている廃棄物の山をきれいに持っていってくれた。人力では、とても時間がかかる作業を機動力は、短時間でこれを片付けていった。
やっと、家並みの街らしさが戻ってきた。
第3回目の休暇をもらってなんとかこの期間中に人が住めるようにと思って家の整理に通ったが、壁土がなかなか手に入らない、畳も入手できない。休暇中に何とかと思う気持ちだけが先行して実行はなかなかままにならなかった。
毎日、家の中をゴソゴソとしているだけで時は容赦無く過ぎていった。柱を水洗いした。何回ふいても塩分が浮いてくる。押し入れの棚板も同じだった。床下に風を入れて床板を水洗いして陽に干した。残っていた床下の水たまりの汚水を搔き出した。家の横の崩れかけた塀をありあわせの木で補修した。ちぎれてしまった裏口の引き戸の蝶番を取り替えて打ち直した。雨戸やガラス戸を洗った。ひびの入ったガラスを紙で貼った。目立たない事々だったが、やらなければならないことだった。そして何かをしていることで焦る心を抑えていた。こうして、1日1日が暮れて行った。楽園町へ帰るのは、いつも夕方であった。相変わらず携帯ラジオをぶら下げ、例の重いペダルを踏んで山崎川の堤防を走った。何日こんなことをしたらいいのだろうか。
この頃毎日のように救援物資が配給された。新聞報道によると、全国各地から救援物資が届けられ、名古屋城の広場などを埋めているとか。学生や婦人会の人たちがそれを私たちに配分するための奉仕活動をしているとか。被災地では組単位に代表者が受け取りに行き、それを1戸単位に分ける。こんなことが午後の日課の1つであった。その救援物資の大部分は衣料品であった。しかし、この衣料品はまことに申し訳ない事ながら、私たちに使える物が少なかった。ほとんどの人たちも同じ思いだったらしい。折角の救援物資を拒否するのは心苦しく、心の中では無用のものと思いながらも、多くの人の好意を無にすることもできずに受け取っていたようだ。かなり日時が過ぎてから、私も心ならずも廃品回収に出してしまったのである。このことは、後日、新聞記事に問題として取り上げられた。被災者が贅沢であったわけでは無い。使えるものが身体に合うものがほとんどなかったのである。このほかに、毎日か1日おきぐらいに食パンが1戸1本あてほど当たった。これはありがたかった。楽園町に持って帰ると1食分の食事になった。また義援金として床上浸水家屋1戸当たり3,000円が支給された。新品の毛布3枚、上敷き3枚、布団1組、鍋1個、タオル1本、肌着2枚等々が配布された。被災証明書で国鉄、名鉄、市電、市バスの無料乗車が11月末日まで認められた。
この救援物資の中にノートと、筆入れ鉛筆が入っていた。四国八幡浜市の小学校3年生のMさんの名前があった。子供は2歳7ヶ月だった、まだ使えないが、送り主の名前が分かっていたので、その行為に対して礼状を書いた。しばらくしてお菓子の缶入りが送られてきた。また礼状を書いた。それが縁でMさんと文通が始まった。おじさま、おばさま、そんな宛名で春秋の近況や年賀状が交換された。福井へ、岡崎へ、笠松へ、そしてまた岡崎へと住所が変わっても続いた。彼女も岡山への転勤で移動し、そして結婚したが文通が続いた。昭和60年の年賀状に主人名の喪中の挨拶状があった。私も母の喪で年賀状をいちど抜いた。それから翌年賀状を出したが先方からは来なくなった。そして、ついに文通も切れてしまった。いちども逢う機会がないまま。
肉親の物心両面にわたる大きな援助がなかったら家の復旧はずいぶん遅れたであろう。壁土の入手も、左官を頼むのも、畳を入れるにも、すべて父の口利きで父の顔で無理を聞いてもらえたのである。畳屋も左官も市から強制的に仕事を課せられ、一般市民の順番はなかなか回ってこなかった。それを、父の力でノルマ外の仕事をして引き受けてもらえたのであった。土こねも、土運びもやった。慣れない作業を夢中で手助けした。父も、Kさんも手伝ってくれた
楽園町の実家に身を寄せて2ヶ月余りも世話になった。この間、大家族の中で物心両面にわたって真の温愛をしみじみと感じさせられた。狭い家の中で、両親、兄夫婦と子供、弟妹、そして私たち親子3人の組み合わせは、毎日の生活の中でときには意に反することも多くあったろう、明るく微笑みで過ごせた事はありがたいことだった。
12月の初旬やっと修復なった戸部下の家へ帰ってきた。この時も、トラックの手配から荷物の積み降ろしに至るまで何もかも世話になった。義母、義妹も当日このトラックで荷物を運んでらって一緒に戸部下の家へ帰って来た。家の横に立っていた街灯にも灯が入っていた。まだ住人は少ないが、元の町らしくなってきた。
あとがき
平成2年9月初旬、押し入れの奥から、埃にまみれた伊勢湾台風災害記録写真集を引っ張り出して見ているうちに、自分を中心にした体験記を書いてみようと思い立った。ところが書き出してみると筆は遅々として進まず、いっこうに進展しなかった。ちょうどこの頃、東海地方には珍しく台風が3度も続けて上陸してきた。その中の1つは近年稀な大型台風で久しぶりに家がきしみ、風雨の激しさを感じた。こんな記録を書き出したので台風を呼んだのか。遅々と進まない筆に当時を思い出させるために台風がやってきたのか。何か台風に励まされたような気持ちで続きを書いた。被災者になって初めて人々の温かい情を知り、天地自然の驚異を更めて知った。それを書きたかったのである。
終
追記
平成21年9月26日、伊勢湾台風から50年になる、改めて当時のことが前後して、テレビ、新聞紙上に大きく報道されていた。私も平成2年9月「1被災者の記録」として、このことについて書き綴った、それを読み返して当時をしのんだ、そして被災しながらも、「不幸中の幸いであった」ことを再認識するのだった。
今、多くの人々の体験談を聞き読み知った。
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肉親が力尽きて手元から濁流の中へ流されていくのを助けることもできずに送った悲しみ苦しみを。
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貯木場に集積してあった、巨大な丸太棒が縦になり横になって荒れ狂い、家を破壊し、人々を打ちのめした。
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汚水に浮き沈みの苦しみを。
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300メートル近く流されながらも翌日、自衛隊のボートに救助された。
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濁流の記憶、流木、家財道具で埋め尽くされた光景。
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屋根に上がれず水に流されながら、増水で浮き上がり、他の屋根に手が届き押し上げられた形で助かった。
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そして幾度も泥水を飲んだ。
等々、どの記事を読んでも、胸をキュンと締め付けられる。痛みがよみがえってくる。
天の非常と、大自然の猛威におののきを感じるのであった。折しも9月29日南太平洋のサモアでマグニチュード8.0の地震が伝えられた。同30日の夜スマトラ沖でマグニチュード7.6の地震があった。津波、家屋の倒壊が発生し、日を追って被害の広がるのを報道してくる。思えば世界の人々は大自然の中でこの地球の上でそれらと闘いながら、生き抜いていると思う。
さらに追記
10月6日 930ヘクトパスカル風速50メートルの台風18号が本土を狙っていた。過去10年で最強の台風で、しかも伊勢湾台風と同じようなコースと報道されて戦々恐々としていた。午前5時ごろ伊勢湾知多半島付近に上陸して、東海以北の本州を串刺しにするように猛烈な勢いで各地に、風水害、竜巻の被害をもたらしていった。私達は、幸いにも凄い風雨の音を聞きながらも眠っていることができた。岡崎市でも1部停電が翌日まで続き大樹も根こそぎに倒れたところもあった。猛烈な台風知多に上陸し、東海以北に災異厳しき(災異とは暴風雨など天災異変を言う)
おわり(父の作品)