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執筆者の写真Napple

村上龍

更新日:5月23日

2023/1/27

 村上龍との出会いは「限りなく透明に近いブルー」だった。

 「限りなく透明に近いブルー」ってすごく素敵なタイトルだと思う。巷で話題になり、素敵なタイトルに誘われて出会ったのが村上龍だった。ところが読んでみると、タイトルの放つ色彩とは裏腹の、投げやりで暴力的な物語に戸惑った。不思議なことに、時が経つとまた彼の作品に手を伸ばしてしまう。そして「コインロッカー・ベイビーズ」に出会う。ものすごい負のエネルギーが息苦しいけれど、読まずにはいられない力作だった。


私が出会った村上龍の作品。

  1. 1976年:限りなく透明に近いブルー

  2. 1977年:海の向こうで戦争が始まる

  3. 1980年:コインロッカー・ベイビーズ

  4. 1992年:イビサ

  5. 2003年:13歳のハローワーク

  6. 2005年:空港にて

 

日記に綴られた村上龍にまつわる思い。


1995年


8/6

 村上龍「海の向こうで戦争が始まる」へ突入する。話がずるずると長くいつの間にか登場人物が変わっている、映画の映像的流れを模しているようにもみえる。変なストーリー展開だ。何か自分の中のものが崩れていくのを感じる。自信がなくなり不安な気分がやって来た。

 今日は変な夢を見た、母が草刈り機のような飛行装置を使って空を飛ぼうとするのだ。そしておっこちた、僕は慌てて探すと母はにっこり笑って「だいじょうぶだよ」と現われた。


8/7

 午前12時45分:村上龍「海の向こうで戦争が始まる」を読み終える。僕には村上龍の良さがさっぱり分からない。ただし本文ではなく後書きの「大事なのはね、三作目だ・・・処女作なんて体験でかけるだろ?二作目は、一作目で修得した技術と想像力で書ける。体験と想像力を使い果たしたところから作家の戦いは始まるんだから」というリチャード・ブローディガンの台詞が重くのしかかって来た。


 村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」に突入。村上龍の三作目の小説だ。出だしは衝撃的で快調に進んでいく。コインロッカーで発見された二人の少年がどうなっていくのか心配だ。「コインロッカー・ベイビーズ」は不思議な物語だ。感動とか共感とかじゃなくて、そうだリアリティーが有るんだと思う。読んでいると何かがむしょうにしたくなる、そう文章をむしょうに書きたくなるような、そんな衝動を起こさせる不思議な刺激がある。″何かしたい、何がしたい?、何かしたい、何がしたい?・・・″としばらく僕はぶつぶつしゃべっていた。


 小説における「リアリティー」とはどう言うものか何となく分かってきたような気がする。まず僕は「リアリティー」=「共感」と勘違いしていた。「リアリティー」とはその言葉どうり「現実性・現実感・存在感」だ。ただしその「現実感」は、いかに非現実的なことを書いても得られうるものであること、同様にいかに現実的なことでも表現が悪ければ少しも「現実感」を得られないということだ。そして「共感」とは全く別物なのだ。「共感」=「一種の感動」が得られなくても「リアリティー」のある小説は迫ってくるものがある、そしてそれが必ずしも「共感」でないにしても何かを感じさせるものとなりうるのだ。そうなのだ、小説とはいかに非現実的なことにリアリティーを持たせるかということが大切なんだ、命なんだと分かった。そこに共感を埋め込むことができれば傑作が出来上がるに違いない。読者は非日常的な世界を小説に求めているのだ。でも決してリアリティーだけの小説は真の傑作とはいえない。またリアリティーが引き出す問題提起がいかに深遠なものでも傑作にはなりえない、そこに共感できる何物かがなければ傑作にはなりえないのだ。


 僕の中には、何物をも否定しようとする何かが潜んでいる。それは自分を含めてなのか含めないものなのかは分からない、ただひたすらに違うと思うものがあるということだ。その結果カウンセリングの先生が指摘したような挑戦的な個性が表出するのではないだろうか。僕は何に反抗しようとしているのだろう。自然に対侍する時そんな感情は沸いてこない、人に物に、色々なものに対侍する時その反抗心が僕の裏側に潜みにじみ出てくる。実は僕はもっと自分が素直な人間だと思っていた。でもここ数日色々な本を読んだり先生と話したりした結果の自分を振り返るとそうではない自分が浮き上がってくる。それは以前から予感するものでもあった、しかし、どうしてそんな反抗的な自分が形成されなければならなかったのか、それを突き止めたいと思う。僕は両親を尊敬しているし憎いと思ったことなどない、事ある事に感謝さえしている、だから両親とのかかわり合いから形成されたとは思いたくない、自分自身が勝手に何かのきっかけをもとに形成したのだと思いたい。それとも、こういった反抗心は僕に限らずすべての人間が本能的に持っているものなのだろうか。いずれにしろ僕にとってこの感情こそが僕の毒の部分だという気がする、だからそれを理解して僕のコントロール下に置きたいのだ。


 安原顕を読みブコウスキーを読むことによってエネルギーを奪われ元気を無くした僕だった。村上龍の「海の向こうで戦争が始まる」ではこの気持ちの沈みを回復することはできなかったが、同じく村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」で何とか気持ちを上向けることができるようになり、小説に必要なものが何で有るかを感じる事さえできた。今の僕にとって小説は、一喜一厭のもとであり、読む順序が非常に重要になっている。何でも読めばいいって言うものではないのだ。何を感じるかがとても大切だ、感じるためにはある種の順を追う必要がある。そういう意味では今まで読んできた順序というのは偶然とは言えとっても大きな意味を感じさせる。


 でもどうして小説の中にはこんなに、狂気が一杯なんだろう。どの小説を取っても必ず狂気がある。平凡な物語は評価されない。人間すべてが狂気を持ち合わせているからなのだろうか。三島由紀夫も・太宰治も・宮沢賢治も・村上春樹も・吉本ばななも・ブコウスキーも・アガタクリストフも・村上龍も全員狂気を小説の中で表現している。僕も小説を書くからには狂気を描かなければならないのだろうか。もしかすると狂気とはある種の純粋さの現われなのかも知れない。


 宮崎駿の毒(狂気)について:彼の作品は爽やかで感動的である、そう上辺だけを見ればそのとおり。しかし彼の作品は人殺しが何とも簡単に行なわれる、それも少女が人を殺してさえ必然性を感じさせてしまうくらいの爽やかさだ。今まで僕は気がつかなかった、彼のインタヴューを読むまでは。彼のインタヴューで彼はとんでもない毒気を持った人間像を僕の前に示した。しかし彼の作品からはその毒気は臭ってこない。大抵がすばらしい感動・共感を与えてくれる、あの毒気を持った宮崎がいかにしてその毒気を感じさせないで我々に感動を与えてくれるのだろうか。何処に彼の狂気は隠されているのだろう。


 村上龍・吉本ばななを読んで感じる毒気は強烈なものがある、そして初期の村上春樹にも似たものがある、ところが最近の春樹には毒気が乏しく感じてしまう(村上龍を読めばなおのこと弱く感じる)安原顕はそこのところを言っているのだろうな。


 「自分が最も欲しいものが何かわかっていない奴は、欲しいものを手に入れることが絶対にできない。」(村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」より)コインロッカー・ベイビーズを200ページほど読んだところで僕は非常に情緒不安定になった。この本には何か異様なパワーがある。僕の心の内で渦巻いているものは何だ、共感?いいや違う何かもっとせつないものだ。リアリティーとか必然性の本質をもっと突き止めなくちゃならない。


8/8

 午前7時45分:村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」(上)を読み終える。息苦しく感じる部屋が汗臭い、部屋中の窓を開け、蒲団とカーペットを干した。蝉の鳴き声がどっと入ってきた。これが文学なのか?文学なのかも知れない、そう文学なんだろう。

 鳩が庭の山桃の木に巣を作っていた。″クックウ・クックウ″と鳴いている。洗濯をして掃除をした。まだ汗臭い臭いが残っている気がする。


 午後11時45分:村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」(下)を読み終える。圧倒的なパワー、そして想像を絶する非現実世界、不思議なリアリティー。むんむんするような駅のコインロッカーにまさに熱気でむせ返り泣きわめいている生まれたての子供がいるような気がする。すごいと思った。ぐいぐい引き込まれていく。読み終えた今の気持ちは素直に感動であるとはいえない、しかし心をつかむものがある。例えるなら「アキラ」を読んだときの興奮に通じるものがある。それは決して「風の谷のナウシカ」を読んだときの興奮・感動とは異質のものである。僕には書けないだろう世界だ。しかも安原顕日く最近の作品はもっと過激になっているという。確かに評価されるべき作品であり、多くの人が絶賛するのもわかる、安原顕がひたすら村上龍を絶賛する理由もわかる。でも僕はこんな小説は書かない。大いに参考にはするけれども僕が書こうとする目的がそもそも違うのだ、僕の目的は甘っちょろい物かも知れない、しかしここまで破壊的な作品は僕には書けないし書きたくない。まだ僕には何を書くべきかがわからない。


8月26日(土曜日)

 午後9時:村上龍「イビサ」を読んでいる:のっけから性衝動を刺激する話の展開。何だかこうもして本を読む必要があるのだろうかという気がしてきた。


8月27日(日曜日)

 午後7時:ようやく目覚める。ほぼ一日寝たことになる。とてもだるい。そう麺を食べる。


 午後8時45分:両親からの定時連絡、父はこの夏の書で「桜花賞」をいただいたとのこと。書く書くといいながら書けない僕より数段立派だ。


 午後10時:丹波が電話をしてきた、今の状況とどうしようとしているかを話すと、元気のない声で「そうか」と言った。早く電話を切りたそうだった。村上龍の「イビサ」のせいか、単にふしだらな生活のせいかとても退廃的な気分だ。なにもかもがどうでもよく、うっとおしく、寂しい。


8月29日(火曜日)

 午前3時:昨日はまる一日寝てしまって今日はこんなに早くから目が覚めてしまった。仕方がないのでスパゲッティ−を湯でて朝食を取り4時頃から散歩に出る。まだ真っ暗で東の空にオリオン星座が輝いている。真上あたりにスバルがぼ−っとかすんで見える。小鳥の声も聞こえない。住宅地を抜け総合公園へ出るあたりから空が白みだし明るくなり鳥の鳴き声も聞こえるようになってきた。


 村上龍の「イビサ」を読み終えていたが:なんの感動もない、世の中にはこういった破壊的な物語を好む人(安原顕の様に)がいるということはわかったが僕が求めているものではない。「コインロッカ−・ベイビズ」は非常にスリルングで引きつけるパワーとストーリーに魅力があったが「イビサ」にはそういうものがなくだらだらと物語が進んでいくだけだった。村上龍より春樹の方が面白い。


 

 病気になり、会社を辞め、小説家になりたいと足掻いていた頃のこと。


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