2023/1/214
彼女の作品との出会いは映画「つぐみ」だった。
少女の悪魔的魅力と松崎の風景が美しい青春映画である。映画の素晴らしさに誘われて本を読み、「吉本ばなな」というふざけた名前の作者の類稀な文章に驚いた。彼女の紡ぎ出す言葉には、今まで感じていたけれど言い表せなかったことがあった。それは、三島由紀夫や村上春樹の言葉遣いとは違うけれど本質的なものが似ている。「人ってこうだよね、本当に困っちゃうんだけど、そうなんだよね、でもね、それでいいんだよ。」と、そんなふうに語りかけてくる。気がつくと何冊も彼女の本を手にしていた。『TUGUMI」以外のどの物語もストーリーを思い出せない。でもどの物語も、読み終えた時にジーンと心が痺れている。
私が出会った吉本ばななの作品。
1987年:キッチン
1988年:うたかた/サンクチュアリ
1988年:哀しい予感
1989年:TUGUMI
1989年:白河夜船
1989年:パイナップリン
1990年:N・P
1994年:アムリタ(メランコリア)
1996年:SLY
2013年:HOLYホーリー
2018年:ただそこにあなたが
日記に綴られた吉本ばななにまつわる思い。
1995/6/13
「私を含めて、私の周りにも、あなたを含めて多分あなたの周りにも″困った人″は沢山居ます。才能だったり、欠落だったり、生きて行きにくい何かをいつも抱えて歩いている人。でも、この世にいるどのような人にも、誰にもはばからずに好きな位置でその人が思うように生きていい、そういうことを自分も含めて忘れそうになりそうなので、それを強く込めて、今ここで作品にしたかったのです。」(吉本ばなな「N・P」後書きより)
「・・こころがけも、強さも弱さも、疲れも、心細さも、人とは決して分かち合えない。それならわかったふりをして口に出すより、わかった者同士として普通に時を過ごそう、その空間の共有こそがコミュニケーションというものだ」(吉本ばなな「N・P」文庫版後書きエッセイより)
「結局、それぞれの人間がそれぞれの局面で言葉にしきれず、表現し難かった何かを物語にして見知らぬ他人と分かち合いたいのだ」(吉本ばなな「N・P」文庫版後書きエッセイより)
この言葉の中に、いままで「感じていて、大切にしていた」ことが語られている。
1995/7/22
吉本ばななの随筆「パイナツプリン」を読み終える:何だか良くわからん、小説とは全然違った文体でふつーの女の子じゃん。
1995/8/23
吉本ばなな:「メランコリア」を読み終える:不思議に込み上げてくるものがある。彼女の作品にはいい様のない心を締め上げるような何かがある。思い出してしまった。かつて大学一年だったころ2回目のデートで初めて彼女の肩に手をやったとき、彼女は「僕らしくない」と言った。僕はすぐ肩から手をどけてしまった。なぜあの時「そんなことないさ」と言って彼女の肩をしっかり抱けなかったのかと。人生は悲しいことがあって初めて喜びがわかる。小説も喜びだらけの内容には感動はない、何らかの悲しみ・せつなさがあって初めて喜びを増複できる。
1995/8/24
午前1時:吉本ばなな「アムリタ(上)」を読み終える:淡々と日常が語られ、少しオカルトチックな話が仕掛けられている。「あんなすごいことが起こったのに、単に私が私としてだらだら生き続けて何時か死んで行く、そういう流れの中に自分の中でいつの間にか自然に溶け込んでいる。日常というものの許容量とは、恐ろしいものだ」「何かしてやりたい。どうして人は人に対してそう思うのだろう。何もしてやれないのに」「私の心と言葉の間には、決して埋められない溝がいつもあって、それと同じくらい、私の文章と私の間にも距離があるはずだ」「時間は生き物だ・・・夕日・・・1日は1日を終えるとき、何か大きくて懐かしくて怖いほど美しいことをいちいち見せてから舞台を去っていくのだ」「いろんな人にいろんなことを言われるかも知れないが、自分の身体から声をだしている奴以外の奴は、どんなにもっともらしい事を言っても、わかってくれても信じちゃだめだよ。そういう奴は苛酷な運命を知らないから、嘘の言葉でいくらでも喋ることができるんだ」以上上巻から感じたフレーズ達だ。
1995/8/25
午前2時15分:吉本ばなな「アムリタ(下)」を読み終える:切なさ、はかなさ、喜び、癒し、色々な言葉が浮かんでくる、何ということもない話なのに何処か訴えてくるものがある、やはり吉本ばななはただ者ではない。「失うものができると、初めて怖いものもできるんだね。でも、それが幸せなんだね。自分の持ち物の価値を知ること?」「感傷的になるのは、暇だからだ。精神的に弛緩していると、思い出が亡霊となって満ちてくる」「小説の産み出す空間の生々しさって言うのは本当に年月を超えるんですね・・・」「小説は生きている。生きて、こちら側の私たちに友人のように影響を与えている」「ああ、なんて人間てばかばかしいんだろう。生きていくということや、懐かしい人や場所が増えていくということはなんてつらく、切なく身を切られることを繰り返していくんだろう、いったいなんなんだ」「ふだん寂しいと思いたくなくて無理して麻ひさせていた感覚が、一つ一つ開いていくのが目に見えるようだ」捕え所がないような頼りなさ、不安定な感じが全編にあってかつ、ずっしりとのし掛かってくる人の生のようなものを感じさせるそんな話だった。何度も胸を締め付けてくるものがある、淡々と語られる一人の女性のある一時。不思議な浮揚感をもって読み終わった後も何か失いたくないものをそっと手に包んでいるような気がしてくる。
2003年10月15日(水)
天気がよい、妻がドライブしようと言うので、よし出かけようということになって伊豆までやって来た。特に当てもなく、150号線を海を見ながら沼津まで。沼津港でおいしい魚を食おうと入った店は失敗だった。まあまあの値段だったけど味がいまいちだった。こんなこともある。もう日が暮れて暗くなってしまったけれど、伊豆半島西海岸を南下することにした。途中「スカンジナビア」でチーズケーキを食べようと思ったけれど、6時を回ってしまったので食べられなかった。明日帰りに寄りたいねといいながら通り過ぎる。「御津のシーパラダイス」も「大瀬崎」も通過して行く。「戸田」と書いて「へだ」と読む港町は「想い出岬」から見下ろすと松林が明かりで照らされた幻想的な中洲があった。真っ暗な中二人で散歩した。松崎までどこか泊まれるところはないかと探しながら車を走らせたけど結局見つけることが出来ないまま松崎に到着。
2003年10月16日(木)
松崎港の突端の車中で一晩を明かす。妻はご機嫌斜めだ。しばらく会話も出来ない。お風呂に入りたいというので、近くの町営の温泉を探すと堂ヶ島方面に朝8時から入れる「しおさいの湯」というのがあった。松崎から西伊豆町へ引き返しまずはコンビニを探す。朝のモーニングコーヒーを買ってトイレを借りる。少し探してようやく「しおさいの湯」を見つけた。浮島海岸のすぐ傍にある。まだ少し時間が早いので、海岸で気分をリフレッシュすることにする。ようやく妻も気分がよくなってきたようだ。海は透き通っている。空は晴れ渡り、秋の日差しに薄がそよいでいる。堂ヶ島の遊覧船に乗る。朝昼兼用で食事をしてから、ドームシアターを見て松崎へ引き返す。
「つぐみ」という映画を見て、その町の風合いをじかに味わいたいとおもった街。以前から行きたかった町だ。今日ようやく来ることが出来た。「長八美術館」では主任が付きっ切りで説明をしてくれた。「長八」の作品を杇絵ということ。額の竹焼きの部分も実は漆喰で作られていて、ある作品は、竹の額の部分が緑色に着色されているのだが、実は竹で出来ていると勘違いした持ち主が防腐剤を縫ってしまったための変色だという。確かに、言われなくては気が付かないほどうまく作ってある。妻と二人で、うんうんといいながら説明を楽しく聞いた。特に時間に追われるわけではない旅だから、こんなことが出来る。知識としては知っていたけれど、よくわかっていなかった漆喰芸術というものをはじめて味わった。なまこ壁の情緒のある松崎の町並みを散策して。映画「つぐみ」の舞台になった旅館をみて。チョット足を伸ばして「岩科学校」を見学。岐路に付くことにする。 昨日はすでに暗くなってから西海岸線を走ったから見ることの出来なかった景色を堪能しながら、松崎・堂ヶ島・土肥(とい)・戸田(へだ)・大瀬崎へと戻り、御津で「スカンジナビア」のチーズケーキを食べながら夕日を眺めた。
2003年10月17日(金)
「つぐみ」を借りてきて見た。昨日二人で見た松崎の街をこうして映画を通じてみるのはなんだかうれしい。
2013/4/27
「HOLYホーリー」を読み終える 星4つ:感想はない。
2020/11/25
彼女の物語は読んでいる時心地よさに包まれている。ところが記憶に残らない。そこにはとても大事なことが語られていた気がするのに、するりとどこかへ漂っていってしまう。三島由紀夫と村上春樹に等質のものを感じてならない。
吉本バナナは、文章が上手いのだろうか、人の本質を見抜くことができるのだろうか。さらりと描く例えが妙に共感できる。それってすごいことだとおもうのに、どうして物語を思い出すことができないのだろう。そこに主義主張はなく、まるで物語の内容なんかどうでもいいような、とにかく読んでいる時、うんそうなんだよと気持ちよくさせてくれることが全て、そんな気がする。それは村上春樹も同じだ。
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