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執筆者の写真Napple

チャールズ・ブコウスキー

更新日:5月23日

2023/2/19


チャールズ・ブコウスキーとの出会いは「街でいちばんの美女」だった。

私が出会ったチャールズ・ブコウスキーの作品。

  1. 1998年 街でいちばんの美女

 

日記に綴られたチャールズ・ブコウスキーにまつわる思い。


1995年8月6日

 ブコウスキーの短編「町でいちばんの美女」を読む:まだ1作しか読でないからどうとも言えないが、安原顕やビートたけしが絶賛する程よいとは思わない。続けて5作読む:何だか身体が腐っていくような不快感と、どうでもいい倦怠感と、奇妙なエクスタシーを感ずる。唯々汚らわしい汚物を見ているような気もする。安原顕もビートたけしも最低だ。さらに8作読む:ブコウスキーは郵便局に勤めながら作家活動を行なっていた。郵便局員、それは堅い真面目な印象を受ける、彼の文体にそぐわない感じだ、何かとんでもないところで大切なものを秘めながらわざとねじ曲げているそんな感じがしてきた。さらに3作読む:耐えきれなくなる。短編を全部読み終える:何ともすっきりしないむかつく気分になった。「人魚と交尾」は何となく惹かれるものがあった。「卍」はすべての短編とムードを異にしていて面白かった。いずれにしろ訳者すらむかついているらしいのだむかつかないはずがない。とにかく退廃的で、過剰なまでの汚物・としゃ物・汚いセックスが全編にあるのだ。昨日この本を本屋で見つけたときの喜びがこんなふうに裏切られるとは思わなかった。安原顕の言うことは当てにならない。


1995年8月7日

 安原顕を読みブコウスキーを読むことによってエネルギーを奪われ元気を無くした僕だった。村上龍の「海の向こうで戦争が始まる」ではこの気持ちの沈みを回復することはできなかったが、同じく村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」で何とか気持ちを上向けることができるようになり、小説に必要なものが何で有るかを感じる事さえできた。今の僕にとって小説は、一喜一厭のもとであり、読む順序が非常に重要になっている。何でも読めばいいって言うものではないのだ。何を感じるかがとても大切だ、感じるためにはある種の順を追う必要がある。そういう意味では今まで読んできた順序というのは偶然とは言えとっても大きな意味を感じさせる。


 でもどうして小説の中にはこんなに、狂気が一杯なんだろう。どの小説を取っても必ず狂気がある。平凡な物語は評価されない。人間すべてが狂気を持ち合わせているからなのだろうか。三島由紀夫も・太宰治も・宮沢賢治も・村上春樹も・吉本ばななも・ブコウスキーも・アガタクリストフも・村上龍も全員狂気を小説の中で表現している。僕も小説を書くからには狂気を描かなければならないのだろうか。もしかすると狂気とはある種の純粋さの現われなのかも知れない。


 僕の心の内で渦巻いているものは何だ、共感?いいや違う何かもっとせつないものだ。リアリティーとか必然性の本質をもっと突き止めなくちゃならない。


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