2023/2/18
アゴタ・クリストフとの出会いは「悪童日記」だった。
私が出会ったアゴタ・クリストフの作品
1986年 悪童日記
1988年 ふたりの証拠
1991年 第三の嘘
日記に綴られたアゴタ・クリストフにまつわる思い。
1995年7月13日(木曜日)
今日はほとんど眠れぬまま本を読み続け、午前5時から庭の草むしりをやって、シャワ−を浴びて、また本を読んで時間調整し、食料品と本を買い出しに出かけた。一日なんてあっという間に過ぎてしまうもんだと今さらのように思う。
アゴタ・クリストファ「悪童日記」を読む:不思議な読後感の小説だった。悪くはないが、各界からの絶賛にあるほどすごいとは思わなかった。確かにインパクトのあるショッキングな内容だった。でもスト−リ−に共感が持てなかった。ただし、感覚的表現を極力避けた文体は参考になる。
アドルフ・ヒトラ−「わが闘争(上)」を読む:彼は元々画家を目指していたという、近親感を抱く。ほとんどは言っていることが堅いのか、何を言っているのかすぐ分からない。しかし色々な角度から、自分の時代を分析しているところは結構勉強している感じがしたし、分からないでもない。ところがユダヤ人に対する記述が始まると有無を言わさぬ否定的な感じで始めは不愉快だったけれど、段々その気がしてくるところが恐ろしいところだ。しかし第1時世界大戦に敗戦して混乱し、沈んでいる国家を盛り上げていくあたりはある面感動的でさえあった。
今日は気分の軽い初夏のかほりのする一日だった。小説を書かなくてはという気持ちがつのってきて、とにかく試験的なショ−トスト−リ−作品を書き始めることにした。自伝的大河小説になる予定の「青春物語(仮称)」の外伝的なエピソ−ドを田舎の喫茶店を舞台に、日記風にまとめるというものだ。タイトルを「1.9lの魔法びん」としてタイトルにそくして、ちょっぴり素敵な魔法の粉を振り掛けた青春時代の一こまを切り出してみたい。そして実際に学生時代に描いたスケッチを挿入するのだ。
7月14日(金曜日)
午前3時:目が覚めてしまった、本を5時まで読んで、5時から軽く食事をして、ごみを捨てに行き、3度目の草刈りを行なった(ここ数箇月の中で唯一労働と言えるものだ、あと2日ぐらいで家の周囲の草が刈れそうだ。)、そして6時にシャワ−をあびた。爽やかな初夏の一日が始まろうとしている。小説を書くためにできるだけ色々なタイプの小説を読んでみようと最近は知らない作家の本ばかりを漁っている。昨日はアゴタ・クリストフだったりアドルフ・ヒトラ−だった。今日は、ヨ−スタイン・ゴルデルの「ソフィ−の世界」を読み始めている。全ヨ−ロッパで超ベストセラ−になった哲学ファンタジ−だそうだ。
午前7時30分:久しぶりに豆を引いてコ−ヒ−を入れた。気ままに、気楽に、自分の家で大の字になって寝ころび、コ−ヒ−を飲みながら本を読む。素敵だ。ここ数箇月会社を休んでいる罪悪感をふっと忘れて、この素敵な一時を過ごす。何かをしなければいけないと焦ったこともあるけれど、もっと気を楽にして、書けるときに、有るがままの姿で、僕の書きたかった小説を書けばいい、そんな気がしてくる。成るようにしか成らないのだから。そして、忙しく働いていたときに忘れていた素朴な疑問をもう一度思い起こしながら時を過ごしてみよう。
小説「青春物語(仮称)」の外伝の一つ「I.F.S.A.」について
インターナショナル・フィールド・シット・アソシエイション略してI.F.S.A.日本語で「国際野糞協会」である。高校時代に非公式に作られた倶楽部である。会員は「Tちゃん」と「H」と「僕」の3名だけだった。僕はその名前を愛していた。当時の我々にとってその名前は神聖なものであり、正に自分達の気持ちを言い表した名前であった。自分のオリジナルロゴを作ってそこには必ずI.F.S.A.と書き込んで愛用していた。活動と言えば、高校の裏山に登り峠を越えて、JR(当時は国鉄だった)の一駅分を山の中を散策しながら帰ることぐらいで、実際に野糞もしたことはなかったように思う。3人でジャン・ジャック・ルソ−の「自然に帰れ」を合言葉に大真面目に会則を作り、会員証を作り、この世の不思議を、自分の存在とは何かを、女の子を会員に入れるべきかを語り合った。
小説「青春物語(仮称)」の外伝の一つ「放浪社」について
放浪社これは大学時代に作られた、やはり非公式な倶楽部だった。放浪しながら夢を育て、一人では実現しがたい夢を仲間で力を合わせて実現しようというのが放浪社の出発点だった。今回は高校時代に比べて会員数も多く、会報も3冊作成され、揃いのトレーナーを作成し、「ポケバイのレース」に出場したり、「シェル・カーグラフィック・マイレッジマラソン」に自分達で作った車で出場するという快挙をなした。会員はすべて男性だったが、多くの会員は彼女を同伴して参加していたので活動はずいぶん華やかだった。
「放浪社」も「I.F.S.A.」も時代と共に活動事態は自然消滅してしまった。けれども僕の中にはいつまでもとうとうと流れていていまだに存在している。
「ナップリン・ユキ・チャカミレ」
一頃チャップリンが非常に好きだった時代がある。そのころ愛用していたペンネームがナップリン・ユキ・チャカミレである。中村とチャップリンを掛け合わせると「ナップリン」となり行宏のゆきを取って「ユキ」、最後にチャップリンと中村を掛け合わせると「チャカムラ」となりそれがなまって「チャカミレ」となる。
「窓の外の風景」
リビングの窓の外はデッキになっていて小さな庭に山桃の木が一本デーンと生えている。その向こうの道路をサイレントムービーの様に人々が静かに通り過ぎて行く。まるで僕一人を残して時間が過ぎ去って行くようだ。僕は窓を通じて世の中をのぞいている、けれども決してつながってはいない。ただ窓の外の風景が僕にかかわり無く過ぎ去って行く。
「感情のコントロ−ル」
いつごろからだろう、小さいときから感じやすい少年だったが、年を重ねるうちにずいぶん、感情が様々な外的要因に簡単に左右されるようになってしまった。通常ならば年と共にコントロ−ル能力が身に付いていきそうなものだが、僕の場合逆にコントロ−ルが困難になってきている。小説を読んでいたり、テレヴィジョンを見ているときに強く心を揺さぶられる出来事に遭遇すると、胸が詰まってしまって目頭が熱くなり、もし話をしようものなら涙声になってしまう。周辺に人がいようものなら恥ずかしいかぎりである。主に両親や友人と一緒にいるときにコントロ−ルを失った自分を隠すのに苦労している。さて、僕のおやじこそは実は、多感で繊細な情緒の持ち主で、嬉しいこと悲しいことに付けてすぐに涙ぐんでしまう。正に遺伝である。
7月18日(火曜日)
3時30分:やはり目が覚めてしまう。アゴタ・クリストフ「ふたりの証拠」を読み終える。なぜ皆がそれほど絶賛するのか、何処に感動があるのか僕には分からない。でも一気に読み通してしまう魔力がある。
7月19日(水曜日)
午前2時30分:昨日はまる一日を眠ってしまった。ようやく起きたのが今日の午前2時半というわけだ。ト−ストとコ−ヒ−で朝食を取り、まだ足りないのでチキンラ−メンを炊いた。しばらく本を読んで過ごし午前4時半から散歩に出かけた。もうあたりはしらじらと明るい、都田総合公園をぐるりと一周して帰ってくる。虫の音、鳥のさえずり、小川のせせらぎ、そして僕の歩く足音が聞こえる。鴬・ほととぎす・せきれい・ハト・スズメ・キジ、その他名前を知らない多くの鳥達が朝を告げるように鳴き競っている。朝焼けが奇麗だ、公園の東の杉林に朝焼けが赤く映って輝いている。小一時間ほど歩いてからシャワ−を浴びる。
午前6時だ、まだ近所は起きだしていない。リビングル−ムに大の字で寝て本を読む。
午前9時:アゴタ・クリストフ「第3の嘘」を読み終える。何とも言い様のない悲しさを感ずる、ここにもまた欝病者が登場する。そして作者のインタヴィュ−を読むに付け共感は高まっていく。彼女の3冊の小説は複雑な共感を呼ぶ小説だった。僕が書こうとしている自伝的小説に何らかの形で影響をするのではないかと思われる、それは文体であったり、謎、嘘、何冊かを読むことで結び付く複雑な嘘の世界。3冊目を読んでようやく僕は共感を得ることができた。始めの2冊は共感を呼びはしなかったが強烈な印象を僕に与えた、そして3冊目にすべてが解き明かされた時何とも言い様のない共感がわいてきたのだった。いや、共感と言っていいのだろうか、何一つ僕の経験したことのない内容に共感のしようが何処にあるというのだ。これは共感ではないかもしれないが心を揺さぶる何かではあった。
午前10時30分:洗濯をしながら「ソフィ−の世界」の続きを読み始める。僕が書こうとしている自伝的小説の要素は「嘘」と「夢」=「妄想」かも知れない。それをいかに本物らしく見せるかと言うところに哲学的テクニックが必要だ。
8月1日(火曜日)
午前5時:ごみを出すために起きる、そのまま散歩に行こうかとも思ったが眠かったので引き返し寝てしまった。
安原顕:「本など読むな、バカになる」を読む。昨日も書いたが、村上春樹をぼろくそにこき下ろしている。途中あまりの不快さに本をほうりだしてしまった。些細なことを一つずつ取り上げては揚げ足取りのように批判しているとしか思えない愚劣さ、僕自身をあざ笑っているような気分になり腹立たしく悲しかった。三部に別れた第一部をなす村上春樹のこき下ろしは何とも納得の行かない批評だった。もう読まなければよいのに我慢して読んだ、反対意見にも耳を傾けるべきであると思ったからだ。だが2部から3部を構成する色々な本の紹介・批評はがらりと変わって参考になり面白く読めた。もっとも紹介しておきながら資料がないだの、忘れてしまったのと肝心の内容がない箇所には腹が立ったが、大筋はなかなか参考になるものだった。なぜなら、彼は一日に2冊は本を読んでいるということ(僕には2冊は読めない)僕のほとんど読んだことのない本ばかりを紹介していること、小説はかく有るべしという筆者なりの持論があること、などから、興味を抱かせたのだ。
「小説は新聞の三面記事とは違い、実際に起こった不可解な事件や人物をただ書き連ねただけではダメで、「なぜその時そうなったのか」を、深く突き詰めて考え、しかもそのことを、ある主人公を通して描ききらなければならない。・・・聖俗、美醜、善悪などを敢て逆転させ、悪を徹底的に書き込むことにより、読者を「悪」の魅力に目覚めさせ、ひいては「聖とは、美とは、善とは何か」を改めて問い直させるような小説・・・善悪両面を内包した人間を描いてこそ「傑作」なのであって、世に「傑作」といわれる小説が少ないのは、そのことがいかに至難の技かの証明であり・・・小説とは、言ってみれば「嘘八百」の世界、つまり、ある作家が何処まで創造力を羽ばたかせるかにかかっている。」とは安原の言である。以上の観点からいうと、村上龍・吉本バナナ・アゴタクリストフはそれに叶っていることになるらしい。そのほかにも彼が掲げる幾人もの作家は僕の知らない作家ばかりだった。ここは素直に彼が推薦する作家を読んでみようと思う。いずれにしろ不愉快ではあったが、ドキッとさせられ・考えさせられる本ではあった。しかし最近読んだ宮崎駿の文章に「一人の人間に構築できる世界なんてたかが知れているよ・・・」というのがあった。宮崎駿の世界は好きだし純粋な感じだけど彼自身はかなりの偏屈者らしい。やれやれ、うんざりすることばかりだ、小説を書く自信も揺らいでくる。
僕自身が持っていると思う才能とか、観念を一度打ち壊してしまう必要を感じる。そして再構築するのだ、そのためにももっと一杯色々な本を、他人の考えを、作家の持つ技術を一度吸収しなければならない。またカウンセリングを利用して僕自身の観念、潜むものを引き出したい。それにしてもいささか混乱している。
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