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三島由紀夫

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 2021年7月24日
  • 読了時間: 4分

更新日:2024年5月23日

 三島由紀夫と村上春樹の類似点は、文章に比由的表現が多いことだ。ただし、三島の比由は古典的で美しく情緒的だ、村上の比由は現代的で、美しいというより感覚的な感じだ。そして村上春樹と、吉本バナナも類似点がある。それは、現代的なム−ドと、淡々とした語り口調、そして所々に現われる不思議な共感だ。しかし、三島と吉本は似ている気がしない。

 どうして小説の中にはこんなに、狂気が一杯なんだろう。どの小説を取っても必ず狂気がある。平凡な物語は評価されないと言うことか。人間すべてが狂気を持ち合わせているから今更めくじらを立てるような事でも無いのか。三島由紀夫も・太宰治も・宮沢賢治も・村上春樹も・吉本ばななも・ブコウスキ−も・アガタクリストフも・村上龍も全員狂気を小説の中で表現している。もしかすると狂気とはある種の純粋さの現われなのかも知れない。


 三浦綾子の文章は、センテンスで見るかぎり、三島由紀夫や村上春樹のように共感を呼ばないし奇麗だというわけではない、全体が感動を招いている。逆に三島由紀夫や村上春樹は、部分的に共感を得られるが、スト−リ−がどう言う内容だったかすぐ忘れてしまう。どちらが優れているとはいえない。


 またしても情緒不安定がやってきた、ともするとなじみの感覚なのだが、心細くて、今にも泣き出してしまいそうな気持ちは、たとえ側に親しい友人がいようと、両親がいようと、最愛の人がいようと、どうしようも無い。この不安をごまかす唯一の方法は、今の気持ちを文章にすることのようだ。この方法は気持ちを整理するうえでも、不安な気持ちを逸らすうえでも有効なようだ。

 何がこの不確かなやるせなさの原因なのだろう、今回の場合は多分に今読んでいる三島由紀夫の「豊暁の海 第1巻 春の雪」のせいであることは間違いない。大学生の頃この本を読んでこんなに面白い小説は無いと確信したらしいことが文庫本の至る所に書き込まれている。今回読み返し始めたのは、あの頃の感動をもう一度味わいたいからだった。そして今、夜が更けるに従い、毒気に当てられたごとく、滅入っている。どうすればよいのだ。

 学生時代に感じたことは、純粋さへの共感かも知れない、彼女がいたために自分達を置き換えることができたから感動が深かったのかも知れない。もし若さゆえの感動であれば、悲しいことだ年を取るということは。できれば変わらぬ思いを感じ心の若さを失っていないことを確認したかった。今なを変わらず感じることは、三島由紀夫の表現力の巧さだろう。文章全体がすべてたとえで構成されているといっても過言ではなく、恐ろしく長い修飾語が付加されている。これをもって文学的表現というのかも知れない。そして的確にたとえられたその文章は、大いに共感を呼び覚ます。そこには今まで表現したくてできなかったことをうまく言い表せた爽快感があり、これこそ真理だと思わせる説得力がある。

 例えば「恋の苦悩は多彩な織物であるべきだったが、彼の小さな家内工場には、一色の純白の糸しかなかったのだ。」「理知があれほど人を心服させるのが難しいのに、偽りの情熱でさえ、情熱がこうもやすやすと人を信じさせるのを、一種苦々しい喜びで眺めた。」物語全体を通してこの調子を続けることはやはり天才にしかできない。


 村上春樹の「ねじ巻鳥クロニクル」が「豊暁の海」を意識した作品である可能性が示唆されていたことも、読み返す気になったきっかけだった。三島由紀夫の作品は、精徴な表現に感嘆するがなぜかスト−リ−を思い出すことができない。今回読んでいて読んだはずの内容がすべて初めて読む内容に等しかった。太宰治は、表現こそ思い出せないが、物語の内容が克明に残っている。宮沢賢治は、タイトルの付け方に脱帽してしまう。村上春樹吉本バナナは、いかにも現代的なタッチに共感を呼ぶ、しかしいずれもストーリーが思い出せない。

 こうしてみると僕の好きな作家の中では、太宰のみ物語の内容を印象的に残していることになる。三島は太宰を嫌っていたという、それは合い通ずるものを持つものに対する嫌悪感かも知れない。村上春樹も三島に対して敵対感を持っているようで面白い。


三島由紀夫との出会いは「豊饒の海」だった。

私が出会った三島由紀夫の作品。

  1. 1956年:金閣寺

  2. 1965年:春の海(豊饒の海一)

  3. 1967年:奔 馬(豊饒の海二)

  4. 1968年:暁の寺(豊饒の海三)

  5. 1970年:天人五衰(豊饒の海四)

  6. 日本現代文学全集 38 大岡昇平・三島由紀夫集

カセットブック

  1. 1970年:三島由紀夫最後の言葉

  2. 1988年:学生との対話


1 comentário


Napple
Napple
25 de abr.

2025/4/18


 母と一緒に『炎上』を観た。かつて三島由紀夫の『金閣寺』を読んだはずだが、あの物語がこういう形で映像になるとは思わなかった。けれど、そういえば中身はほとんど覚えていなかったのだった。


 映画は美しいと言うにはあまりに陰鬱で、登場人物の誰ひとり、特に強く共感できる者もいなかった。悪人はいないのだが、それがかえって、画面に漂う空気を重くしていた。主人公は、金閣寺の美しさを口にはするものの、それに心を打たれている様子がほとんど感じられなかった。あれは、演出の意図なのだろうか。「私の本心を見抜いてください」と詰め寄る主人公は、若さという言葉で説明をつけるには、あまりに短絡的で、あまりに浅はかに思えた。結局、1時間半をかけても、彼が金閣寺に火を放つに至る心の動きは分からなかった。


 母はこの映画を若い頃にも観ていて、「もう二度と観ることはない」と思ったという。にもかかわらず、私が一緒に観ようと誘ったことで、再び向き合うことになった。若い頃に感じた暗さ、救いのなさは、今もあまり変わらなかったらしい。「この歳になって色々わかる気もするけれど、やっぱり、なんとも救いのない映画だ」と言った。母は今年で九十二になるが、話しぶりにまるで翳りはない。


 私にとって、金閣寺を燃やすという行為は、どうしても理解しがたいものだった。ものを壊したいと思ったことがないとは言わないが、環境団体が名画を汚すニュースには怒りが湧く。癇癪で物を壊すような感情も、どこか遠い。壊れてしまったら、どうやって直そうか、そういうことばかり考える。だからこそ、金継ぎの精神に共感するのだ。壊れたものを、前よりも美しく蘇らせるという在り方。けれど、それでも、もしも金閣寺の美が、燃やす以上に損なわれてしまうような事態があったなら、そのときは「燃やす」ことを考えるかもしれない。もっとも、きっと私は、やはり実行できないだろう。


 金閣寺を燃やすという行為は、異常だ。意味を見出すのは難しい。けれど、世の中にはそうせざるを得ない人もいるかもしれない。その気持ちを分かろうとすることが、自分にできるか。いや、そもそも分かろうとする必要があるのか。そんなふうに考えながら、世界の分断を思う時、金閣寺に火を放つ人の心を想像することが、もしかすると分断を理解し、和解へと向かう一歩になるとしたら、目を背けてはならない。そう思う。ただ、それでも、やはり本当に理解することができるかどうか、分からない。


 映画の終盤、荼毘のシーンが印象に残った。火と海辺の光景。何かが燃えて、灰になってゆく様子に、妙に心を引かれた。すると、母がぽつりと言った。「お前のお爺ちゃんもあんなふうに荼毘に付されたんだよ。目の前で焼かれて、足がピンと跳ね上がってね」。それは、終戦間もない頃の話らしかった。今と違って、火葬は目の前で行われていたという。「父が焼かれていくのを、ただ見ているしかなかった。あれは、なんとも言いようのない時間だった」と母は言った。物語をきっかけにして、母の記憶の奥にある時間に触れたような気がした。


 母と私は、よく一緒に映画や本を楽しむようになった。若い頃はそんな時間も少なかったけれど、父が亡くなってから再び共に暮らすようになって、同じ作品を観て、感じたことを言い合う時間が増えた。親子だからこそ通じるところと、いくら親子でも違うなと思うところ。そのどちらもが、こうして一緒に過ごす時間を、ゆるやかに彩ってくれる。


 映画の内容は、やはり重たく、暗いものだった。けれどその暗さが、語り合いの余白を残してくれた。語るべきものがあって、それを語れる相手がいるというのは、思いがけず、幸せなことだと思う。

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