三島由紀夫と村上春樹の類似点は、文章に比由的表現が多いことだ。ただし、三島の比由は古典的で美しく情緒的だ、村上の比由は現代的で、美しいというより感覚的な感じだ。そして村上春樹と、吉本バナナも類似点がある。それは、現代的なム−ドと、淡々とした語り口調、そして所々に現われる不思議な共感だ。しかし、三島と吉本は似ている気がしない。
どうして小説の中にはこんなに、狂気が一杯なんだろう。どの小説を取っても必ず狂気がある。平凡な物語は評価されないと言うことか。人間すべてが狂気を持ち合わせているから今更めくじらを立てるような事でも無いのか。三島由紀夫も・太宰治も・宮沢賢治も・村上春樹も・吉本ばななも・ブコウスキ−も・アガタクリストフも・村上龍も全員狂気を小説の中で表現している。もしかすると狂気とはある種の純粋さの現われなのかも知れない。
三浦綾子の文章は、センテンスで見るかぎり、三島由紀夫や村上春樹のように共感を呼ばないし奇麗だというわけではない、全体が感動を招いている。逆に三島由紀夫や村上春樹は、部分的に共感を得られるが、スト−リ−がどう言う内容だったかすぐ忘れてしまう。どちらが優れているとはいえない。
またしても情緒不安定がやってきた、ともするとなじみの感覚なのだが、心細くて、今にも泣き出してしまいそうな気持ちは、たとえ側に親しい友人がいようと、両親がいようと、最愛の人がいようと、どうしようも無い。この不安をごまかす唯一の方法は、今の気持ちを文章にすることのようだ。この方法は気持ちを整理するうえでも、不安な気持ちを逸らすうえでも有効なようだ。
何がこの不確かなやるせなさの原因なのだろう、今回の場合は多分に今読んでいる三島由紀夫の「豊暁の海 第1巻 春の雪」のせいであることは間違いない。大学生の頃この本を読んでこんなに面白い小説は無いと確信したらしいことが文庫本の至る所に書き込まれている。今回読み返し始めたのは、あの頃の感動をもう一度味わいたいからだった。そして今、夜が更けるに従い、毒気に当てられたごとく、滅入っている。どうすればよいのだ。
学生時代に感じたことは、純粋さへの共感かも知れない、彼女がいたために自分達を置き換えることができたから感動が深かったのかも知れない。もし若さゆえの感動であれば、悲しいことだ年を取るということは。できれば変わらぬ思いを感じ心の若さを失っていないことを確認したかった。今なを変わらず感じることは、三島由紀夫の表現力の巧さだろう。文章全体がすべてたとえで構成されているといっても過言ではなく、恐ろしく長い修飾語が付加されている。これをもって文学的表現というのかも知れない。そして的確にたとえられたその文章は、大いに共感を呼び覚ます。そこには今まで表現したくてできなかったことをうまく言い表せた爽快感があり、これこそ真理だと思わせる説得力がある。
例えば「恋の苦悩は多彩な織物であるべきだったが、彼の小さな家内工場には、一色の純白の糸しかなかったのだ。」「理知があれほど人を心服させるのが難しいのに、偽りの情熱でさえ、情熱がこうもやすやすと人を信じさせるのを、一種苦々しい喜びで眺めた。」物語全体を通してこの調子を続けることはやはり天才にしかできない。
村上春樹の「ねじ巻鳥クロニクル」が「豊暁の海」を意識した作品である可能性が示唆されていたことも、読み返す気になったきっかけだった。三島由紀夫の作品は、精徴な表現に感嘆するがなぜかスト−リ−を思い出すことができない。今回読んでいて読んだはずの内容がすべて初めて読む内容に等しかった。太宰治は、表現こそ思い出せないが、物語の内容が克明に残っている。宮沢賢治は、タイトルの付け方に脱帽してしまう。村上春樹と吉本バナナは、いかにも現代的なタッチに共感を呼ぶ、しかしいずれもストーリーが思い出せない。
こうしてみると僕の好きな作家の中では、太宰のみ物語の内容を印象的に残していることになる。三島は太宰を嫌っていたという、それは合い通ずるものを持つものに対する嫌悪感かも知れない。村上春樹も三島に対して敵対感を持っているようで面白い。
三島由紀夫との出会いは「豊饒の海」だった。
私が出会った三島由紀夫の作品。
1956年:金閣寺
1965年:春の海(豊饒の海一)
1967年:奔 馬(豊饒の海二)
1968年:暁の寺(豊饒の海三)
1970年:天人五衰(豊饒の海四)
日本現代文学全集 38 大岡昇平・三島由紀夫集
カセットブック
1970年:三島由紀夫最後の言葉
1988年:学生との対話
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