初めての味など大抵忘れているものだが、まれに覚えている味がある。
小学生の頃、旅の途中に特急列車の車内販売で父が買ってくれた「不二家ネクター」はとろりと甘く、こんなに美味しいものは飲んだことがないと思った。
小学生の頃、親戚の家で飲んだ「コカコーラ」は初めての味で、なんだこれはと強烈な印象が残っている。
高校時代、通学電車の待ち時間に飲んだ生ぬるいトマトの缶ジュースは一口目吐き出しそうになる程まずく感じたのだが、二口三口と飲むほどに美味しく感じていったのは不思議だった。
受験で宿泊した旅館の朝食に出た「生たらこ」は、焼いたたらこしか食べたことがなかったため気持ち悪かったが、ご飯にのせて食べるとたまらなくうまかった。
覚えていても良さそうなのに覚えていない味もある。
珈琲を初めて飲んだ時の記憶は、いくら探っても出てこない。父が飲んでいたものをもらったのだろうと思うが、美味しくなかったのだろう。
酒もタバコも初めての味は覚えていない。どれも美味しいとは思わなかったのに、なぜ好むようになったのだろう。
珈琲、酒、煙草の味を覚えていないのは、その複雑な味が最初は美味しく感じられないからに違いない。でも美味しそうではないのに惹かれてしまうのは、雰囲気なのだ。珈琲はとにかく匂いに誘われる。阪急東商店街のバンビで飲んだ珈琲や、神田のルノアールで飲んだ珈琲はいずれも焦げ臭かった。でも、喫茶店にたむろする雰囲気が恋しくて何度も足を運んだ。
両親が飲まなかったから、お酒のない子供時代を過ごしたのだが、高校卒業を機に友人の家でウイスキーを飲み、酔う面白さと、飲みすぎると気持ちが悪くなることを知り、もう飲むまいと思ったのもつかの間、大学生になると、クラブやコンパで飲まないわけにもいかず。彼女の前で格好をつけるためにバーボンをオーダーした。若い頃は味もわからず、安酒をがぶ飲みした。歳を重ねようやくお酒の複雑な味わいを楽しめるようになってきた。
煙草こそ絶対に吸わないぞと思っていた。もし手持ちぶたさになったらポケットに忍ばせた知恵の輪をやることにしていた。ところが山に登るようになると、2週間山の中で先輩から煙草を勧められ、断ることもできずに1週間も経つと、自分から催促するようになっていた。そうなると今度は先輩も残り少なくなるとともに出し惜しみをした。結局下山すると煙草を買いに行き、いつの間にかパイプをくゆらすようになっていた。火をつけたり、煙を吐く所作には哀愁のようなものが漂った。
若き頃は、バーテンのアルバイトで酒と煙草と珈琲はより一層身近なものとなっていったが、社会人になり煙草をやめた。お酒も飲む機会が減った。珈琲だけは毎日のように楽しんでいる。もう少し味がわかるといいのにと思いながら。
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