寛容と不寛容の夜
- Napple
- 9月28日
- 読了時間: 2分
更新日:9月30日
2025/9/28

古びた柱時計が、鈍い音を打った。小さな店内には、白熱電球の光と、カップの影がゆらゆらと揺れている。
常連が、カウンター越しにふと口を開いた。「……ぼくは、寛容でありたいと思ってきたんだ。でもね、どうしても不寛容になってしまう自分がいる。最近、そのことがやけに気になるんだ。」
灰皿に灰を落としながら、マスターが静かに訊ねる。「それは、我慢に似ているかい?」
「そう。我慢できているあいだは寛容でいられる。でも、限界を超えると、不寛容に傾いてしまう。寛容と不寛容があるんじゃなくて、我慢の限界がどこにあるか……そう言うことなのかもしれない。」
窓の外では、街灯に群れる虫が、光に吸い寄せられ、また離れていった。
彩音が、スプーンをそっとソーサーに置く。「でも……言うべきことを言わずに我慢するのって、ほんとうに寛容って呼べるのかな?」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。ただ柱時計の針が、遅すぎるくらいの速度で進んでいく。
やがて、無口な男が珍しく声を出した。「……寛容は、仮の装置だ。」
一瞬、空気が揺れた。彩音は目を上げ、マスターはグラスを磨く手を止める。
「仮の装置……?」
「そう。世界はこれまで、その装置に頼って、我慢することで何とか治まっていた。でも……もう限界なんだ。」
誰もが思い当たる。戦争の火種、国と国の対立、SNSの小さな画面に溢れる誹謗と嘲笑。寛容の装置は軋みをあげ、世界は不寛容に傾いている。
彩音が小さくつぶやく。「でも……もし我慢が、限界を迎えているなら。私たちはどうしたらいいんだろう。」
そこで、無口な男はグラスの水面を指さす。「壊れることを恐れるな。破壊のあとにしか見えない道もある。回復は、そこから始まる。」
しばらく沈黙が続いた。やがてマスターが、氷の音を鳴らしながら言う。「つまり……人は間違いながらも、そのたびに道を選び直してきた、ってことかな。」
誰も反論しなかった。その夜、店に流れていたのは、寛容でも不寛容でもなく——破壊のあとに訪れる「回復」という言葉の余韻だった。
「寛容と不寛容の夜」(了)
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