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執筆者の写真Napple

村上春樹

更新日:5月23日

2023/1/23


 彼との出会いは、エンジニアを続けることを諦めかけた頃だった。

 貪るように読み、彼の表現力の巧みさに惚れ惚れとしながら、なぜかストーリーが記憶に残らないことを訝しんでいた。


私が出会った村上春樹の作品。

  1. 1979年 風の歌を聴け

  2. 1980年 1973年のピンボール

  3. 1981年 夢で会いましょう

  4. 1982年 羊をめぐる冒険

  5. 1983年 カンガルー日和

  6. 1985年 回転木馬のデッド・ヒート

  7. 1985年 羊男のクリスマス

  8. 1987年 ノルウェイの森

  9. 1988年 ダンス・ダンス・ダンス

  10. 1990年 遠い太鼓

  11. 1994年 ねじまき鳥クロニクル

  12. 2002年 海辺のカフカ

  13. 2009年 1Q84

  14. 2013年 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

  15. 2014年 女のいない男たち

  16. 2023年 街とその不確かな壁

 

日記に綴られた村上春樹にまつわる思い。


1995/4/28

 「風の歌を聴け」を読み終える。


1995/5/12

 「1995年のビリヤード」僕の部屋には小さなビリヤード台がある。6ホールあるやつだ。白い玉を突いて1~15まで番号の付いた玉をホールへ落としていく。どこか人生に似ている。曲芸のような突き方はできない。曲芸はできなくてもいいからもう少しましな生き方ができないだろうか?


1995/7/1

 村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読み始めた。今の僕の心境にとても近い出だしで話は始まった。象徴的な、暗示的な、運命的な感じがする。そして昼頃また眠りに付いた。


 村上春樹の「風の歌を聞け」から始まった一連の小説は1970年代から始まり「ダンス・ダンス・ダンス」は高度資本主義社会を舞台とした1980年代へと突入していく。幾度もおかしいくらい高度資本主義社会という言葉が出てくる、いわゆるバブルの時代だ。僕が描こうとしている時代はそのバブルの時代から始まり、バブル崩壊の時代へと変遷していく中での人々を描くことになるだろう。彼の描く時代と重なりながら10年ほどずれた時代を通り過ぎた若者の姿を描くことになるだろう。


1995/7/22

 村上春樹「カンガルー日和」へ突入。女は突然他愛もない哲学的な質問を男に向かって問い掛ける。男はさも当然という感じで、もっともらしい説明をする。その実はそのことについてもっと勉強しておけばよかったと思いながら、悟られないように返事をするのだ。そして女は「ふーん」と分かったような返事をするのだ。いつもそうだ。全くパパは何でも知っているだ。


 村上春樹「眠い」を読む:やられたーと言う感じ、眠いということをここまで表現した村上春樹に脱帽。かつて、雨が降り続ける恐怖を語ったSF小説を思い出す。それは延々と身体をうち続ける雨の重みを感じさせ絶望的な恐怖を起こさせた小説だった。それは実感ではなく体感だった、身体がまさにそうだよなーと感じてしまうそんな文章だった。


 村上春樹「カンガルー日和」を読み終える:結局「眠い」が一番だった。後はどうって事無いわけの分からない短編ばかりだった。ただ「風の歌を聞け」から「ダンス・ダンス・ダンス」までの物語にかかわりがありそうな短編が興味深かった、あんなふうにこれが膨らんだり変化したんだ。それにちょっと吹き出してしまいそうなハードボイルドの短編があったりで、結構楽しめたことも確かだ。ちょっと不思議な村上春樹ワールドだった。


1995/7/31

 村上春樹の「ねじ巻鳥クロニクル」が駄作で有るという本が出版されていた。読んでみると色々な箇所を挙げて必然性がないとか幼稚であるとか批評しているのだが、同じところを僕は必然性を感じたし共感を得ることができた。例えば主人公が新聞もテレビジョンも持たない事が不自然であると決めてかかっているが、現に今の僕はそのいずれも持っていない。結局、その批評は僕自身に対する批評となって僕にのしかかってくる。


1995/8/1

 安原顕:「本など読むな、バカになる」を読む。昨日も書いたが、村上春樹をぼろくそにこき下ろしている。途中あまりの不快さに本をほうりだしてしまった。些細なことを一つずつ取り上げては揚げ足取りのように批判しているとしか思えない愚劣さ、僕自身をあざ笑っているような気分になり腹立たしく悲しかった。三部に別れた第一部をなす村上春樹のこき下ろしは何とも納得の行かない批評だった。もう読まなければよいのに我慢して読んだ、反対意見にも耳を傾けるべきであると思ったからだ。だが2部から3部を構成する色々な本の紹介・批評はがらりと変わって参考になり面白く読めた。もっとも紹介しておきながら資料がないだの、忘れてしまったのと肝心の内容がない箇所には腹が立ったが、大筋はなかなか参考になるものだった。なぜなら、彼は一日に2冊は本を読んでいるということ(僕には2冊は読めない)僕のほとんど読んだことのない本ばかりを紹介していること、小説はかく有るべしという筆者なりの持論があること、などから、興味を抱かせたのだ。


 「小説は新聞の三面記事とは違い、実際に起こった不可解な事件や人物をただ書き連ねただけではダメで、「なぜその時そうなったのか」を、深く突き詰めて考え、しかもそのことを、ある主人公を通して描ききらなければならない。・・・聖俗、美醜、善悪などを敢て逆転させ、悪を徹底的に書き込むことにより、読者を「悪」の魅力に目覚めさせ、ひいては「聖とは、美とは、善とは何か」を改めて問い直させるような小説・・・善悪両面を内包した人間を描いてこそ「傑作」なのであって、世に「傑作」といわれる小説が少ないのは、そのことがいかに至難の技かの証明であり・・・小説とは、言ってみれば「嘘八百」の世界、つまり、ある作家が何処まで創造力を羽ばたかせるかにかかっている。」とは安原の言である。以上の観点からいうと、村上龍吉本バナナアゴタクリストフはそれに叶っていることになるらしい。そのほかにも彼が掲げる幾人もの作家は僕の知らない作家ばかりだった。ここは素直に彼が推薦する作家を読んでみようと思う。いずれにしろ不愉快ではあったが、ドキッとさせられ・考えさせられる本ではあった。しかし最近読んだ宮崎駿の文章に「一人の人間に構築できる世界なんてたかが知れているよ・・・」というのがあった。宮崎駿の世界は好きだし純粋な感じだけど彼自身はかなりの偏屈者らしい。やれやれ、うんざりすることばかりだ、小説を書く自信も揺らいでくる。


 僕自身が持っていると思う才能とか、観念を一度打ち壊してしまう必要を感じる。そして再構築するのだ、そのためにももっと一杯色々な本を、他人の考えを、作家の持つ技術を一度吸収しなければならない。


1995/9/13

 村上春樹の「遠い太鼓」を読み始める。なんとまあ春樹は自分の疲労のことや何やら、全く個人的なことを本にしている、なんて奴だ。ところで、春樹は40歳という年に非常に重要な意味合いを感じているらしくて、それを確認するために3年間もの長旅をすることにしたという。僕が今38歳を一つのターニングポイントとして考え、40歳をもって生活を新たにしたいと考えている事と、どこか似ている。そして今僕は旅に全世界へ出かけたいと熱望している、それも春樹の心境と似通っている、春樹の文章が駄文であれ、傑作であれ、いつも僕の気分と似通っていることがとても不思議で、僕が春樹を読み続けるこれが全くの理由だと思う。


1995/9/17

 村上春樹「遠い太鼓」を読み終える:「もしこの本を読んで、長い旅行に出てみたい、・・・と思われた方がおられたとしたら、それは著者にとっては大きな喜びです」と書いているけれど、結局春樹の長々とした独白に付き会わされたという感じが残った。


1995/10/5

 村上春樹「ねじ巻鳥クロニクル(第3部)」を読み終えた。不満は沢山有ったけれど、何だか圧倒される気分で読み終えた。何となくほっとしたようなそれでいて、あれはどうなったんだ、これはどういう意味なんだと疑問も多い不思議な作品だった。でもここ数日の塞ぎ込んだ気分を幾らか紛らわせてくれたことは事実だ。会社を退職してすっきりして、未来への希望を抱いたのも束の間、急速に何もやる気がわかない醒めた気分がやってきて、自堕落に、食事も充分に取らない2日間を過ごしてしまった。

 

2009/9/22

 村上春樹の「1Q84」は、 不思議で、 ちょっとずるいと感じさせる本だ。 ずるいというのは、 つい読まされてしまうから。 とにかく、 得たいが知れない物語が始まり、 どこに行くのかいつまでもわからない。 セクシーな表現が随所に現れ、 ついつられてしまう。 そんな時ずるいと思う。 あと2章で終わる。 物語はようやく終焉を迎えようとしている、 どこへ行くのかいまだにわからない。

 

2010/7/25

 「1Q84」を読み時間をつぶす。 緩慢な扇風機の音と、 遠くで聞こえるような、 バックミュージックのヒーリングソング。 鳥の声や鯨の声がたまに混じる。 妻が仕事を終えるのをこうして待つ時間は。 贅沢だ。 残念なことに、 メイプルハウスのマスターは 長居の客を嫌がっているようだ。


2010/8/4

 「1Q84」を読み終える。

 

2011/1/24

 村上春樹の「ノルウェイの森」を読んでいる。 1994年に一度読んでいるようだが、 ストーリーをまったく思い出せない。 タイトルからはその内容が想像できない。 ビートルズの曲名として出てくるけど、 ローケーションとしては出てこない。 どんなお話だっただろう、 新鮮な気持ちで読んでいる。 心地よかったことを思い出す。


 村上春樹の小説を読んでいると、 妻との出来事を不思議と思い出す。 感じていて表現できなかった。 それもとても繊細な心の動き を鮮明に思い出す。

 

2016/1/7

 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み終える 星5つ:感想はない。


2016/12/10

 「女のいない男たち」を読み終える 星5つ:感想はない。

 

2022/7/1

 「海辺のカフカ(上)」を読み終える 星5つ:春樹はずるい。:ここで話が終わったとしてもいい気がする。この上に何が語られるというのだろう。


2022/7/4

 「海辺のカフカ(下)」を読み終える 星5つ:春樹はずるい。:つい次が読みたくなる。でもどこまで読んでも何もわからない。性的な気分を煽られて悶えながら、いつの間にかすかされてしまう。そのくせ、そこに何かしらの真実を垣間見た気がするのだ。

 

村上春樹はずるい。

  1. まず、彼の物語には仕掛けがある。それはどの物語でも大抵不思議なことが起こるのだ。ところがその謎は解き明かされない。だから不完全燃焼になるのだけど、だからと言って謎が解き明かされなくても問題ない気もする。もしきっちり謎解きされたらかえって興醒めしてしまう、そんな謎なのだ。彼の物語における謎は、解くべきものではなく、スパイスのようなもので。この謎のおかげで、読み手は引き込まれてゆく。最終的に謎の解釈は読み手に任されるのだ。こんな手があったなんて、なんてずるいんだと思う。

  2. さらに、彼の物語には定期的にセクシーな場面が差し込まれる。露骨な表現がされることもあり、ドキドキしながら引き込まれてゆく。そしてするりとかわされる。読み手に欲求不満を残しながら物語は進んでゆく。またしてもスパイスになっているのだ。その出来事は重要では全くないのだが、そんなシーンが挟まれることで、読み手は次を読みたくなってしまう。本当にずるいと思う。

  3. そして何がずるいかって、巧みな言葉遣いがずるい。ただ不思議に思うのは、彼の言葉使いは日本人の琴線に触れるものがあると感じた点だ。ところが、彼の物語はいろいろな言葉に翻訳され読まれている。日本人に限定された言葉使いではないようなのだ。彼はまず英語で物語を書き、それを日本語に翻訳するという。彼は国や文化に関わらない普遍的な言葉を紡ぐことができるのだろうか。思っていたけれど言い表せずにいたことをさらりと言ってのける。人が聞きたい言葉を知っているようだ。こんなずるいことはないけれど、彼の紡ぐ言葉を聞きたくてつい読んでしまう。それは吉本バナナも同じだ。

 

2023/5/16

村上春樹という時間

 「街とその不確かな壁」を読んでいる。60ページほど読んでようやく物語に入り込んだ。それまでの60ページは得体の知れない街の話が出てきて何を言っているのかイメージができず、数ページ読んではすぐに読むのをやめてしまった。電子書籍のページ数は確かな指標にはならない。MacとiPhoneとiPadではページあたりに表示できる文字数が異なる上に、読みやすいように文字サイズを変えられるから、同じデバイスで読んでさえページ数ではどこを読んでいるか特定できない。だから60ページというのは実は意味がなく、ずいぶん長い間話に入ってゆけなかったという感覚がここでは一番意味を持っている。それでも読み続けるのは、ついに現実と架空の壁があやふやになり物語世界に入り込む瞬間が訪れることを知っているからだ。


 村上春樹の作品は読み終えた時にどんな話だったか思い出すことができない。ただ村上春樹を読む時間だけが存在する。そこに感動はなく、意味さえ見出せない。ところが、村上春樹の紡ぎ出す言葉を読みたくなる。ただ村上春樹という時間に浸かっていたいと思うのだ。村上春樹のような「現実と幻想が奇妙に入り混じる作品」を「マジック・リアリズム」というらしい。本書の中で村上春樹自身がそのことを解説している。いくつもの謎が現れ、それぞれの出来事にどんな意味があるのか、明確な答えが与えられないまま物語は幕を閉じる。得体の知れない時間に読者は晒される。


2023/5/24

 そしていつしか、これは自分のことだと感じ始める。訳のわからない物語が展開しているくせに、そこで語られることがまさに自分のことに感じて仕方がない。彼の作品を読む大勢が似たような感想を持つらしい。ということは、自分以外の大勢も自分と同じ経験をしているのだろうか。いや、皆が経験していることはさまざまで、同じものであるはずがない。不思議なことだが彼の物語はとても特殊で私的だけれども普遍性を持っているらしい。


2023/5/27

 「街とその不確かな壁」を読みながら、触発された思いが、読書と並行して心の中を漂い始める。時が過ぎるのをただ見つめている事が多くなった。かつては、不安を伴っていたけれど、最近はただ過ぎ去ってゆくのを感じている。時が過ぎ歳をとってゆく。歳をとることで体力や知力が失われるのは残念だが、受け入れ難いことではないらしい。時が過ぎるのを見つめている時、何かを待っているらしい。特に何か具体的なことが待ち受けているわけでもないけれど、何かを待っている感覚がある。物語にこうしたことが描かれているわけではない。ほんのちょっとした言い回しに触発されて、物語と現実に起きた人生のさまざまな出来事が絡まり合ってゆく。村上春樹の作品は、彼が紡ぎ出す不思議な物語が、読者それぞれが人生を振り返り追体験する機会を与えてくれる気がする。だから、物語に意味がなくても構わないし、読み終えた時、多くのことを得た気持ちになるけれど、物語そのものは記憶に残らない。


2023/5/28

 物語を読みながら、現実に自分に起きた出来事を追体験している最中、物語も終わりに近いところで突然「パパラギ」という本を読んだことはありますか?と書かれていた。「パパラギ」は自分にとってとても特殊な本だから、飛び上がってしまった。これだから村上春樹という時間はやめられない。


 読み終えてしばらくすると、中身があやふやになって行く。これは自分のことが書かれていると言う強烈な思いだけを残して。



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