肯定と否定
- Napple
- 5 日前
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2025/5/12

自分の内なる気持ちの肯定と否定の割合を探ってみると、どうも否定の方が多いようだ。否定も肯定もせずに、ありのままを受け入れるという場合もあるはずだが、これに至っては非常に割合が低い。
見るもの聞くもの全て、まず否定から始めているかもしれない気さえする。物事を考える手段、手順としてはなかなか役に立つかもしれない。
ところが、よくよく考えると、否定するのは、優位に立とうとしているのではと言う気がする。その方が気持ちがいい。と言うことは、逆はどうだろう。
つまり肯定やありのままに受け入れる事は、自分を引いて、へりくだる、謙遜する、と言うことがベースにありそうだ。それは自己を抑えるものに繋がっていく。
もしそれが私の物事を考える基本だとすると、悲しい。なんとも器の小さい話ではないか。
とはいえ、器を大きくしたいと意識して、そのために無理やり考え方を変えたとしても、そんなことで器が育つとも思えない。
それなら、どうすればいいのだろう。少なくとも、自分の考え方の癖を知っていることには意味があるのではないか。たとえ否定から始めてしまったとしても、そのことに気づいているかどうかで、ものの見え方や受け止め方は、きっと違ってくるのだと思う。
「分類」は世界を分ける行為であり、それ自体が「肯定/否定」を生み出す装置のようだ。「これは〇」「これは×」「これはA群」「これはB群」といったふうに、私たちは無意識のうちに、何かを肯定し、何かを否定している。そしてその判定基準もまた、自分の価値観や、社会の構造によって育まれた「分類の癖」に根ざしているのかもしれない。
創作活動においても、同じことが言える。「この表現は正しい」「この発想は筋が通っている」といった判断は、常につきまとう。そして、こうして三つの考察は、静かにひとつへと繋がっていく。
ふたたび「創作」に戻っていく。本当に創造的な何かが生まれる瞬間——それは分類の罠に陥ることなく、否定でも肯定でもなく、ただそこにある何か。言い換えれば、それは「本質」そのものを、歪めずに受け止めるということなのだろう。
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