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分類

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 5 日前
  • 読了時間: 3分

2025/5/12



 ホッジ予想は「ものの本質を知りたい」という知的探究心そのもののようだ。モノの本質を見極める手段として、不変点に着目し分類を試みている。その解説を聞いているうちに、分類手法へ気持ちが引っ張られていく。そして大切な事に気がついた。僕たちはいろいろ分類する。分類して整理すると何かと都合がいいのである。


 でも分類とはつまり、区別すること。そしてその延長線上には、差別がひっそりと忍び込んでいるのではないか、そんな感がした。もしかするとこれは、本質を見ようとするときに陥りがちな罠ではないだろうか。


 分類は、たしかに役に立つ。けれど、本質を捉えるうえでは、時にそれが邪魔になることもある。僕たちは物事を理解するために、まず整理しようとする。その過程で、分類を好む。だが、分類していくうちに、いつのまにか興味の焦点が分類の手法や、分類された結果へとすり替わっていく。そうなると、多数派に分類されるものは「重要そう」に見えてきて、少数派は「取るに足らないもの」と感じられてしまう。その時すでに、本質は置き去りにされているのかもしれない。


 本質は、たとえ少数派の中にでも、静かに潜んでいるはずなのに。分類によってそれを見逃しているとしたら──僕たちは、自分で仕掛けた罠に、自分でかかっていることになる。


 さらに言えば、分類が差別感情を生むのだとすれば、本質を探ること自体は善意に根ざしていても、その過程で目的を取り違えると、結果として「本質を見失った差別感情」だけが膨らんでいく。そうして僕たちは、知らず知らずのうちに「対立」を生み出してきたのかもしれない。



 分類という知的営みは、もともと人間が世界を理解し、秩序を持たせるための道具のはずだ。言葉も、概念も、記号も、すべては「分ける」ことから始まっている。でもその便利さに酔ってしまうと、「何を分けているのか」「なぜ分けるのか」を忘れてしまう。そして気がつけば、分けた“枠”の中でしかものを見られなくなる。それはとても恐ろしいことだ。


 差別感情の発端を「探求心という善意のはずの出発点が、いつのまにか歪んでしまう」という過程に見る。この視点は、きっと今の世界に必要なものだと思う。つまりこれは、ホッジ予想をめぐる個人的な思索であると同時に、「人が世界を見るときに陥りやすい視点の癖」をあぶり出す、静かな問いかけだ。


 ホッジ予想そのものは抽象的で難解だけれど、「不変なものを探る」「目に見えるものの奥にある構造を知りたい」という核心には、人間の本質的な欲求がある。僕にとって、ホッジ予想という数学的難題が、分類そのものの意味を問うことへ発展したのだった。

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