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執筆者の写真Napple

シドニィ・シェルダン

更新日:5月23日

2023/2/19


シドニィ・シェルダンとの出会いは「私は別人」だった。

私が出会ったシドニィ・シェルダンの作品。

  1. 1982年 ゲームの達人

  2. 1995年 私は別人

 

日記に綴られたシドニィ・シェルダンにまつわる思い。


1999年9月20日

 シドニィ・シェルダンの「私は別人」を読んだ。多くの人がシドニィ・シェルダンの本はおもしろいと言ったから、いつか読まなくちゃと思っていたからようやく読んだ感じだ。結論、そんなにおもしろくなかった。何だか物足りなくて、もっと本が読みたくて、でも買うのもなんだから、手持ちの本を眺めていて結局久しぶりにホーガンの本を3冊読んだ「星を継ぐもの」「ガニメデの優しい巨人」「巨人達の星」3部作だ。これはおもしろかった。月面に5万年前に死んだ人類の死体が見つかったことから、人類創世の謎解きが始まる。そこにさらに未知の文明巨人族がからんでいる。とにかく本書では、科学が全てを明確にすると言うバックボーンがある。「星を継ぐもの」ではさほど明確ではないが「巨人達の星」では実は、人類の歴史の中で伝えられてきた伝承・神話・信仰は全て、人為的な操作だったとされる。でもこの物語の展開はスムースで、理論に無理がなく、そうかも知れないと思えてしまえるくらいだった。さらに「巨人達の星」では、スパイアクション的な要素まで盛り込まれて、読者を楽しませてくれた。そして読みながら、コンピュータに関わる描写が出てくると、自分のコンピューターにさわりたくなり。宇宙船や宇宙に関わる描写では、そんな映像のあった映画が見たくなった。そして思うことがある。人は幼い頃から、物語や、事に近年ではテレビを通じて、色々な情景を記憶に取り込んでいく。多くの場合幼い頃に取り込んだ情景が一番根深いところに定着しているようなのだが、その情景は必ずしもその当時見たままではなく、その頃取り込んだ色々な情景が混ざり合った形になっている。そして大きくなるに従いその情景は、根っこのところに定着したまま成長を遂げその人独自の情景を形成する。そしてその人の人生の中で色々な夢や動機に深く関わっていく。ある日本を読みたいと思う。あるいは映画が見たいと思う。よみたい本読みたい映画は、そんな根っこに定着した情景や感情を、具体的にしてくれたり、わきたたせてくれるものを望んでいる場合が多い。ところが多くの場合、途中までは期待にそくしているのだけれどもどこか違う。結局消化不良な感じで、物足りなさが残ってしまう。それは人の数ほど、要求があるから、万人の期待に添う物語はあり得ないのだろう。僕の場合もたいていそんな感じで、いつかしっくり来る奴に巡り会うのを楽しみに、本を開き映画を見る。でもそろそろ、自分で作るときが来たのだと思う。そんなことを思いながら、まだ満たされない思いで、学生時代に愛読した半村良の「獣人伝説」を読んだ。結果は不満足。神と悪魔の闘いがちょっとコミカルに描かれている。でも悲しい終末を迎える。神とは実は悪魔が作ったものだった。


 こんな風にむかし読んだ本を久しぶりにひもとく時、一種異様なあせりがよぎった。同じ本を何度も読んでいては、人生が終わるまでにどれくらいの本が読めることだろう。どうせ読むなら違う本と巡り会いたい。ところが読んでみると、ほとんど忘れているのだ。初めて読むような感じだ。これでは大して読めやしない。


 そういえば、ホーガンの本にも半村良の本にも同じように感じることがあった。つまり、人の一生は有限だからおもしろいというもの。有限だからこそ人はその時間を有効に使おうと一生懸命になる。もし不死で無限だったら、人はなにもしなくなるだろう。と言うもの。そうだなと思う。ましてや、ここ数年の間に経験したことを通じて強く痛感する。有限な人生だからおもしろい。まだ僕の人生は折り返し地点を過ぎたところだ。まだまだこれからである。


 小説の中で、多くの主人公は突如としてそれまでの平凡な日常から切り放された経験をする。物語とはそういうものである。つまり、読者は、平凡な日常から切り放された経験を求めている。でも、実際には切り放されることなく経験だけをしたい。だから本を読み映画を見る。ところが、ここ数年僕は、現実に平凡な日常から切り放された経験を、実体験としてしたのだ。そして、それらをくぐり抜け、また平凡な日常に帰還した。もちろん、その過程があるから、見た目は平凡な日常であっても、中身は180どことなった生活となっていても、やはり、在り来たりな、そして安全な日常に戻ったのだ。例えば小説を読むこと自体が日常の全てで、一つの小説を読むのに1年まるまるかかったとしよう。読んでいるときは、小説の中の波瀾万丈な世界が日々の生活そのものだ。でも1年たち読み終えたとき、気が付くと以前と変わらぬ平凡な日常に戻っていたというのはどうだろう。

 

 学生時代、アカデミー出版の英語学習教材「イングリッシュ・アドベンチャー」でシドニィ・シェルダンが書き下ろした「ゲームの達人」を購入した。シェルダンの小説が読めて、英語ができるようになる。朗読はオーソン・ウェルズだった。どこへいったのだろう。



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