2022/3/21
ホーガンとの出会いは「星を継ぐもの」だった。
私が出会ったホーガンの作品。
1977年:星を継ぐもの
1978年:ガニメデの優しい巨人
1979年:未来の二つの顔
1981年:巨人たちの星
1983年:造物主の掟
日記に綴られたホーガンにまつわる思い
1999年9月20日(月)
シドニー・シェルダンの「私は別人」を読んだ。多くの人が面白いというのだが、おもしろくなかった。何だか物足りなかった。もっと本が読みたくて、手持ちの本を眺めていて久しぶりにホーガンの本を3冊選んだ。「星を継ぐもの」「ガニメデの優しい巨人」「巨人達の星」3部作だ。これはおもしろかった。
月面に5万年前に死んだ人類の死体が見つかったことから、人類創世の謎解きが始まる。そこにさらに未知の文明巨人族がからんでいる。本書では、科学が全てを明確にすると言うバックボーンがある。「星を継ぐもの」ではさほど明確ではないが「巨人達の星」では、人類の歴史の中で伝えられてきた伝承・神話・信仰は全て、人為的な操作だったとされる。物語の展開はスムースで、理論に無理がなく、そうかも知れないと思えてしまう。さらに「巨人達の星」では、スパイアクション的要素が加わり楽しませてくれた。
読みながら、コンピュータに関わる描写が出てくると、コンピューターにさわりたくなり。宇宙船や宇宙に関わる描写が出てくると、そんな映像の映画が見たくなった。人は幼い頃から、物語や、テレビを通じて、色々な情景を記憶に取り込んでいく。幼い頃に取り込んだ情景は根深いところに定着しているようだ。その情景は見たままではなく、その頃取り込んだ色々な情景が混ざり合っている。根っこに定着した情景は成長に伴い独自の情景を形成する。それが人生の中で色々な夢や動機に深く関わっていく。
ある日、本を読みたいと思う。あるいは映画を見たいと思う。読みたい本とか見たい映画は、根っこに定着した情景や感情を、具体的にしてくれたり、わきたたせてくれるものを望んでいる気がする。自分の中に形成された情景をさらに成長させたいと望むからだ。ところが多くの場合、途中までは期待どおりだったのにやっぱり違うと感じてしまう。消化不良で、物足りなさが残る。それは人の数ほど、要求があるから、万人の期待に添う物語はあり得ない。僕もたいていそんな感じで、いつかしっくり来る奴に巡り会うのを楽しみに、本を開き映画を見る。そろそろ、自分で作るときが来たのだと思う。
満たされない思いで、学生時代に愛読した半村良の「獣人伝説」を読んだ。結果は不満足。神と悪魔の闘いがちょっとコミカルに描かれている。でも悲しい終末を迎える。神とは実は悪魔が作ったものだった。
こんな風にむかし読んだ本を久しぶりに読み返す時、一種異様なあせりがよぎった。同じ本を何度も読んでいては、人生が終わるまでにどれくらいの本が読めることだろう。どうせ読むなら違う本と巡り会いたい。ところが読んだことがあるはずの本をもう一度読んでみると、ほとんど忘れているのだ。初めて読むような感じだ。これでは大して読めやしない。
そういえば、ホーガンの作品からも半村良の作品からも同じように感じることがあった。つまり、人の一生は有限だからおもしろいというもの。有限だからこそ人はその時間を有効に使おうと一生懸命になる。もし不死で無限だったら、人はなにもしなくなるだろう。と言うもの。そうだなと思う。ましてや、ここ数年の間に経験したことを通じて強く痛感する。有限な人生だからおもしろい。まだ僕の人生は折り返し地点を過ぎたところだ。
小説の中で、多くの主人公は突如としてそれまでの平凡な日常から切り放された経験をする。物語とはそういうものだ。読者は、平凡な日常から切り放された経験を求めている。実際には切り放されることなく経験だけをしたい。だから本を読み映画を見る。ところが、ここ数年僕は、現実に平凡な日常から切り放された経験を、実体験としてした。そして、それらをくぐり抜け、また平凡な日常に帰還した。
見た目は以前と変わらない平凡な日常が180度異なって見える。常軌を逸した不安な生活から安全な日常に戻ったのだ。立ち位置は同じでも、ぐるりとひとまわり何かしらの異常な体験を潜り抜けて同じ位置にいるウロボロスサークル。例えば小説を読むこと自体が日常の全てで、一つの小説を読むのに1年まるまるかかったとしよう。読んでいるときは、小説の中の波瀾万丈な世界が日々の生活そのものだ。でも1年たち読み終えたとき、気が付くと以前と変わらぬ平凡な日常に戻っていたというのはどうだろう。
もう9月も半ば過ぎだと言うのに、何だかじめじめしてすかっとしない天候が続く。
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