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紙と記憶その22「私」

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 2 日前
  • 読了時間: 2分

2025/8/15

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 「紙と記憶」という一連の駄文は、ドラマ『舟を編む』に触発され、紙の本と電子書籍のあり方を自分なりに考える試みとして始まった。当初のテーマは辞書や書籍の形態だったが、思考はやがてAIの記憶やその脆弱性へと広がり、話題はドラマの枠を離れていった。それでも毎週の放送に触れることで再び原点に戻され、最終話を前に映画や原作にも手を伸ばした。


 『舟を編む』は、辞書という存在や紙の本の愛おしさを再認識させる物語だ。だが、魅了されても、実際に紙の辞書を引く回数が増えるわけではなかった。現実にはネット検索が主で、紙の辞書は棚に並ぶだけだ。ただ母は、母の日に贈った大きな文字の国語辞典を今も愛用している。母にとって辞書とは紙の本であり、デジタルには置き換わらない。


 一方、私は、文章も画像も音声もクラウドに置き、電子書籍を選び、どこでも編集や追加ができる便利さを享受している。しかし同時に、書棚に並んだ本の物理的な存在感や、背表紙を眺め、気まぐれにページをめくる喜びも手放せない。もはや「紙かデジタルか」という二択は問題ではないようだ。ただ、どこかに拭えぬ引っかかりがあり、それが『舟を編む』の会話に耳を傾けさせたのだと思う。


 その過程で、デジタル記録が書き換え可能であるという脆さから、AIの記憶の危うさに気づき、AIとそれについて語り合った。結局、答えの出ない堂々巡りに終わったが、それは私にとって面白く豊かな思考実験だった。言葉に込められた意味や感情について、こんなに深く考えたことはなかった。人は言葉やあらゆるもので気持ちを表そうとするが、AIは言葉だけを手段とする――その対比もまた、私の思考を刺激し続けている。


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