2021/7/21
初めてパパラギを目にしたのは1980年3月11日沖縄に向かう船の中だった。何気なく手にした本だったけれど、そこに語られている言葉に心が震えた。
日記に綴られたパパラギにまつわる思い。
1995年8月25日
午前8時:「パパラギ」2回目読み終える:色々な本を読んだけれどもこの本はどの本とも異なった異色の本だ。色々いい本はあったけれども友人にお進めの一冊となるとどうしてもこの「パパラギ」になってしまう。今回米さんと大塚さんにこの本をあげようと思ってまた読み返してみた。何度読んでも笑いと同時に考え込まされてしまう。「沢山のものがパパラギを貧しくしている」「パパラギには暇がない」「パパラギの職業についてーそしてそのため彼らがいかに混乱しているか」「考えるという重い病気」等々。自分がどっぷりつかっている現代社会、これを見事なまでに別の純粋な視点から捕えて批判し警告している。そのままこの本に出会わなければ考えもしなかった自分の置かれている状況、読み返してみて久しぶりに考えさせられるショック。なんのために仕事をしているのだろう、なんのためにこんなにも色々なことを考え悩んでいるのだろう、そんなことに気がつき、今一生懸命の自分がばかばかしく見えてくる。そしてこの本に出会わなければ気がつきもしないだろうこのショック的な何かを友人達にも伝えたいそんな思いが、幾人かの友人ににこの本を送ってきた。僕が思っているほどには誰も何も感じないのか何もこの本について言って来ない、でもこれからもこの本を友人達に送ることだろう。
1995年8月29日
友人達にプレゼントするために「パパラギ」を3冊注文してきた。
1996年1月18日
「前もらったパパラギはどうも私にあわなくて、読み出したものは最後まで読む信条だから読んだけど、なんで中村さんがこの本をそんなにいいと思うのかどうもよく分からなかった」と言われてしまった。そういえば多くの友達にプレゼントしたけれども、感想を聞いたのは初めてだった。みんなどんなふうに感じたのだろう。あんなに素敵な本なのに、僕は目から鱗が落ちる思いがしたのに。・・・
友人の反応にがっかりした。はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビが同胞に伝えようとしたことは、ユーモラスで可笑しいけれど、耳の痛いお説教だ。誰もが同じように感じるはずも無く。ましてや内容は文明批判。人それぞれ信ずることが違う。なのにそんなことも気付かず大勢の人にこの本をプレゼントしてしまった。余計なお世話だった。
改めて読み返すと、初めて読んだ頃の気持ちが蘇って来る。ミヒャエルエンデの「モモ」に通じるものがある。お説教くさいけれど大いに心に響いてくる。こういうのが私は好きなんだと今更に思う。40年前に感じたことが今も同じように感じられるということは、ここで語られた警告が何も役立っていないということでもある。もうかれこれ100年も前に出版されているから、100年経っても変わらないということらしい。このパパラギに大いに影響を受けたと思っていた。そもそも感銘を受けた物語には大いに影響を受け人生が変わるとさえ思ってきたけれど。実は大して変わりはしなかったのだということを、こうして長い年月をかけて振り返り思い知らされた。
2023年1月27日
ノンフィクションだと思って読んでいた「パパラギ」は実は偽書であるらしい。しかしフィクションであってもそこで語られることは大切なことに思える。ただそのことを知った時はショックだった。
Comments