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執筆者の写真Napple

サブカルチャー

更新日:5月25日

2023/3/23


 NHKの「世界サブカルチャー史 日本編 逆説の60-90s」を見た。自分が生きた時代をいいも悪いもひっくるめて見せつけられた気持ちだ。沸々と何かが泡立ちじっとしていられなくなる。肯定と否定の気持ちが人生を揺さぶってくる。


 サブカルチャーとはメインカルチャーがあって存在する。そこにはカウンターカルチャーと呼ばれた反体制的思考が根底にある。主流に対するアンチテーゼ、反抗心の現れ、海外ではマイノリティ(少数派)である。


 日本における代表的なサブカルチャーは漫画やアニメだという。今や大衆的なコンテンツとして認知され「オタク」文化につながり、マイノリティとは言い難い。


 そもそも、日本におけるメインカルチャーとは一体なんだろう。メインカルチャーの方がマイノリティの地位に甘んじているみたいだ。


 サブカルチャーが大衆文化の地位を得ながら、あくまでもサブを自認しているのもおかしな気がする。メインカルチャーになりたくない、という事だろうか。

シャガール 「空の上の二人」Procreate5.3.4で描く


 1960年代「学生運動」が盛んに行われ、1970年に入ると「あさま山荘事件」以後急速に「学生運動」は影を潜めてゆく。それは社会が豊かになり、社会主義国の実態がわかってきたこともあるだろう。


 今や日本でデモや暴動はあまり聞かない。みんな大人しくなったみたいに見える。でも本当にそうだろうか、今や大衆文化とさえ言えるサブカルチャーこそ逆らおうとする思いの集まりなのではないかと思うことがある。


 かねてから善悪が入り混じり、モラルを振り切り、エネルギーを発散する漫画世界の異常さはどういうことだろうと不思議に思っていた。日本人におけるデモや暴動の行き先の一つになったのかも知れないと思うと面白い。


 礼儀正しくおとなしそうな日本人。それは確かに日本人の特質だと思うけれど、内面に渦巻き熱くたぎる思いは、一筋縄ではいかない複雑なものがあって、それは漫画世界に確実に投影されている。そしてそんな時代を自分も生きてきた。


 

NHK「世界サブカルチャー史日本編逆説の60-90s」を振り返る。


 欧米と日本のサブカルチャーは根本的に違う。敗戦国日本はメインカルチャーを潰され、メインカルチャーのないところから出発した。


 独立国家なのか従属国家なのかと安保闘争で学生運動が勃発。新宿騒乱、安田講堂攻防戦、よど号ハイジャック、三島由紀夫割腹、あさま山荘事件と激化してゆく。


 ところが、60年代から70年代初頭にかけての戦いが未消化のまま、高度経済成長期に入った日本は一億総中流時代に突入し、学生運動は急速に鎮静化する。


 物質的な豊かさを目指す過程で価値観は平準化し、何かを失い鬱屈するものを抱えながら、モーレツに突き進む時代に誰もが乗り遅れまいとした。


 変わってゆく日本。民主化、近代化、合理化、議会政治、オリンピック、万博、金の卵、ウーマンリブ、公害、深夜放送。時代の勢いとは裏腹にしらけの時代でもあった。


 浮き足立つ日本を、週刊新潮が俗物時代を扇動し、アンアンが欲望を刺激し、少年マガジンが子供たちの日常に乱入、普及し始めたテレビが拍車をかける。

 

 怪獣が産声をあげ、劇画の登場で大人向けの漫画が進化。角川映画、アイドル誕生、ベストテン、インベーダーゲーム、乱立するサブカルチャーの波。


 ノストラダムスの大予言、オカルトブーム、日本沈没。宇宙戦艦ヤマト、終末思想が蔓延し。日本人のアイデンティティに問いかける。


 日本列島改造、消費社会、ジャパンアズナンバーワン、世界から注目と蔑みを受けながら、バブル時代へ突入し踊り続ける80年代。


 東洋の不思議な島国は敗戦国から経済大国となり、先進国に仲間入りしたことで不意に求められ始めた責任に戸惑う。


 浅田彰やニューアカ、コムデギャルソンを僕は知らない。バブルの渦中にありながらバブルを知らない。僕は病気だった。そんな時代にサブカルチャーは爆発する。


 受験戦争、出口なき高度資本主義社会、歪む家族、何かがおかしい、何かがずれている、頭をかすめる違和感を感じながら夢を見続ける人々。

 

 アイドル、トレンディー、オシャレの時代。世界第2位に成り上がった国に、対日報復決議をする米国。円高、金余り、土地転がし、世界中を買い漁る日本。


 そんなある日、日本は昭和が終わり、中国では天安門事件が起こり、ドイツではベルリンの壁が崩壊した。成功と進歩そして訪れる破壊。重層的で逆説に満ちた時代。


 バブルははじけた。豊かさの幻想を忘れきれずに、お菓子をスイーツと呼び、レンタル、テレビゲーム、携帯が溢れ新しい時代が始まる予感の先にあったのは暇と退屈の時代。


 僕は、セーラムーンも尾崎豊もポケベルも知らない。思えば何も知らないまま、まだ夢は覚めないと思っていた。


 1995年を挟んで時代は急展開する。阪神淡路大震災。地下鉄サリン事件。安全神話の崩壊。ノストラダムスの大予言のカウントダウン。もしかすると世界は終わるかも知れない。


 危機感の中で生まれた新世紀エヴァンゲリオン。逃げたいのに逃げられない、しょうがなくエヴァに乗る碇シンジ。でも僕は当時エヴァも知らなかった。


 流行りを知らず、時代に乗り遅れていた。いっそのこと世の中に逆らう事にした。自意識の時代。そう思ったのは自分だけではなかったようだ。


 時代はインターネットを手に入れ、宮崎駿・押井守・大友克洋が世界で人気を博し日本のサブカルチャーの象徴的な存在に。


 日本が自信を無くし始めた時に、世界は日本のカルチャーに注目し始めた。どうする日本、どうなる日本。


 

 「放浪社の引き出し」と題したWebの集合体。それは喫茶店化計画お散歩の記録MINIのおもいでやりたかったこと読書と駄文お絵描き有限会社放浪社の記録など、個人的なあれやこれやが書かれている。そうした諸々をサブカルチャー史に照らし合わせた時、時代に乗り遅れまいと踏ん張り、時代に逆らおうと抗った、人生が生々しく蘇る。


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