引き継ぐ第8話
- Napple
- 28 分前
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2025/8/24

糸を結ぶ
静けさのなかで、彩音がそっとテーブルの上の譜面に触れた。「……これね、触れているうちに、不思議と曲になってくる。音が、手の中で少しずつ形になるの」
彼女は指先で五線紙をなぞり、ぽんとカウンターを叩いた。まるでそこにカホンがあるかのように。「触れなきゃ、音にはならなかった。紙に描かれた線はただの線。でも叩いて、息を合わせて、重ねていくと……つながっていくんだ」
陽翔はその言葉に苦笑した。「俺なんか、うまく触れられなくて失敗ばかりだよ。昔、模型を組み立てるのが好きだったんだ。でも効率を求めて、途中から完成品ばっかり買うようになってさ。そしたら、触れる楽しさもなくなった。結局、何も残らなかった」
案単多裸亜が手を広げ、身振りで宙に舟を編むような仕草をした。「沈むための舟だっていいのさ。沈む舟にだって、編んだ人の指の跡は残る。跡があれば、誰かがまた拾い上げられる。お前が失敗したその舟も、どこかで誰かの手を待っている」
マスターが小さく笑った。
「触れた跡が残る……か。いい言葉だな」
無口な男がその時、煙草に火をつけながら、珍しく長く口を開いた。「……指を置いた場所に、時間が染み込む。効率は時間を削ぐけど、跡は残さない。だから、渡らない。引き継ぐのは……跡なんだ」
その言葉が、店内をゆっくり巡った。跡が舟になる。跡が糸を結ぶ。
「糸を結ぶ」(了)
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