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引き継ぐ第2話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 8月18日
  • 読了時間: 2分

2025/8/18

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彩音の舟


 カウンター席の奥に腰をかけていた彩音は、怪人案単多裸亜が置いた楽譜の切れ端を見つめた。そして、マスターの言葉が心に波紋を広げている。


 母のピアノは、やわらかな音だった。家のリビングで、夕方になると必ず流れる旋律があった。──音符よりも、指の運びよりも、間の取り方が印象に残っている。母が亡くなったあと、遺品の中から一冊の古い楽譜を見つけた。紙は少し波打ち、角は丸くすり減っていた。五線の上には、ところどころ小さな文字が書き込まれていた。「ここで息をして」「この音は、指先で撫でる」「焦らない」って。


 母は、教える人ではなかった。「こうしなさい」と言う代わりに、背中を向けたまま弾き続ける人だった。私は、椅子の足に抱きつくようにして、下から鍵盤をのぞいていた。母の肩が小さく上下するのが、息の合図だった。


 私は、ピアノの前に座ると、その呼吸が勝手に体に流れ込む。同じ音を出そうとしても、母の音にはならないけれど、母が残した小さな書き込みは、私の指を舟のように支えてくれる。──楽譜は紙ではなく、母の時間で編まれた舟だったのかもしれない。


 彩音は、そんなことを誰にともなく話していた。窓際で陽翔が煙草をくゆらせている。紫煙の向こう、外の通りに夕陽が射している。彩音がカップを持ち直すと、怪人案単多裸亜が笑った。


「彩音の舟」(了)

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