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引き継ぐ第6話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 1 日前
  • 読了時間: 2分

2025/8/22

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無口な男の舟


 夕焼けが黄昏のカーテンに置き換わる頃、店の奥にいた無口な男が、珍しくぽつりと言った。


「誰かを真似して、真似されて、世界はできている。」


 店の空気が一瞬、音を失ったようになった。湯気を立てるカップの向こうで、彩音も陽翔も、怪人案単多裸亜すらも、彼の言葉を聞き漏らすまいと耳を澄ませた。


 「最初の舟を編んだ人の指先を、次の誰かがなぞる。そうやって舟は少しずつ形を変えながら、今ここにある。」彩音はそこまで言って沈黙した。


 陽翔が真面目な声で口を挟んだ。「けれど、真似の先に、自分の舟を編もうとする意志がなきゃ、舟は沈むだけだ。」


 無口な男はゆっくり頷いた。その仕草は、返事というよりも、言葉の続きを預けるようだった。


 マスターがカウンター越しに言った。「真似して、受け取って、その中から自分の指紋を残す。それが“引き継ぐ”ってことかもしれないね。コピーじゃなくて、重ね書き」


 彩音は胸の奥にふっと熱いものを感じた。母の楽譜に残された小さな文字──「焦らない」──あれもまた、真似されるための舟のかけらだったのかもしれない。


 陽翔が、ため息まじりに笑った。「じゃあ、オレがやってきた失敗も、誰かの真似になって、いつか役に立つかもな」


 その瞬間、案単多裸亜が、声を立てて笑った。「沈むための舟もある。失敗の舟が沈んだ場所に、あとから新しい航路ができる。海の底には、陸にはない道があるんだ。」


 無口な男が編んでいたのは、言葉の少ない舟だったのかもしれない。真似と真似の間にできた余白に、彼の舟は静かに浮かんでいる。


 その夜、「1.9Lの魔法びん」にいた誰もが、気づかないうちに、舟を少しずつ編み込んでいた。


「無口な男の舟」(了)

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