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引き継ぐ第5話

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 13 時間前
  • 読了時間: 2分

2025/8/21

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「帰り道のない往復」


 テーブルの上に置かれた楽譜の切れ端に書かれた文字を、彩音はそっと指でなぞった。『帰り道のない往復』──意味はわからない。ただ、その言葉の響きが胸の奥をざわつかせる。


 マスターが、コーヒーを注ぎながら言った。「引き継ぐっていうのは、思いの舟を渡すことなんだろうな。けれど、渡す者の思いと、受け取る者の思いが重ならなければ、舟は編めない」


 彩音は母の楽譜を思い出す。書き込まれた「焦らない」という小さな文字。母は、舟を渡そうとしていたのだろうか。それとも、ただ弾きたかっただけなのだろうか。


 怪人案単多裸亜の言葉が耳に蘇る。「沈むために編む舟もある」──引き継ぎは、必ずしも進むためのものではないのかもしれない。沈むように、失われるように、何かを引き継ぐこともあるのかもしれない。


 陽翔が煙草の灰を落としながら言った。「誇れる失敗ってやつも、帰り道のない往復みたいなもんだな。行っては戻る。けど、戻った場所は、行く前と違う」


 その言葉に彩音は頷いた。舟を編む糸は、まっすぐじゃない。絡まり、もつれ、やがてひとつの形になる。けれど、その形が沈むのか、進むのかはわからない。


 テーブルの上の楽譜とかんな屑に、光が落ちている。母の書き込み、案単多裸亜の言葉、陽翔の記憶──それらがひとつに重なって、静かに何かを編み上げていく。


「帰り道のない往復」(了)

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