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執筆者の写真Napple

アルビン・トフラー

更新日:5月23日

2023/2/18


アルビン・トフラーとの出会いは「パワー・シフト」だった。

私が出会ったアルビン・トフラーの作品。

  1. 1980年 第三の波

  2. 1990年 パワー・シフト

 

日記に綴られたトフラーにまつわる思い。


1995年7月29日

 アルビン・トフラー「第3の波」へ突入。


1995年7月31日

 午前3時:目覚める、アルビン・トフラー「第3の波」を読む。色々な示唆があり現代の構造・文化・自分の成したいことについて考えさせられることが一杯出てくる。でも具体的にどうすべきかはまだ現時点では見えてこない。唯一言えるのは、一般社会の中で多くの誰もが、自然に自分の置かれている立場を受け入れている様に見えると言うこと、(疑問を抱くことさえないのではないだろうか?)僕はそのまま受け入れたくないということだ。(常に本質を見る努力をすること・疑問を持つことと言えるだろう)つまり僕の今後の生き方とか、書こうとしている小説というのは、現代を意識しながらも、第3の波を意識したものにしたいということになると思う。ヒトラーの「わが闘争」にしても、トフラーの「第3の波」にしても、一般大衆がいかに盲目的であり、せつな的であるかを語っている。僕はその一般大衆でありながらいつもその枠から飛び出したいと思っているのだと思う。


1995年8月5日

 トフラー「第3の波」読み終える:ヒトラー「わが闘争」同様読み終えるのに時間がかかる。なぜこの手の本は時間がかかるのだろう。ま、そのことは置いておくとして。この本が執筆されたのは1980年である、今から15年も前の著作である、にもかかわらずなんと示唆が多く、現状を的確に捕えていることだろう。もっと早くに読むべき本であったと思う。今彼の言わんとする第3の波は確かに僕の周りにも波頭を挙げて覆いかかってきている、これにどのように対処すべきか。いつも意識しておく必要がある。


1995年9月6日

 アルビン・トフラー「パワーシフト」へ突入。読み込むのに時間がかかるだろうけれども、きっと何か閃くものを与えてくれるに違いない。 1995年9月11日  アルビン・トフラー「パワーシフト(上)」を読んでいる。仕事をしている時代幾度か感じたこと、やろうとしてかなわなかったこと、つらかったことが沢山この本を読んでいて思い出された。僕は正に第3の波に襲われた会社の中で自分を見失い、やり所のない不安を感じてきたのだ。読んでいくとその時の苛立ちが蘇ってきて、どうしようもない苛立ちに似た悲しみが込み上げてくる。僕は、現代社会の波に飲まれ負けたのだ。例えば、ネットワークの重要性・可能性、またこれを実現するための手段の難しさが語られている。あるいは色々な問題に対処するための分科会的組織の発生と、その活動の成否、無力さなど。「パワーシフト」に書かれていることが一々もっともで、僕が会社で取り組んでなしえなかったことばかりである。悲しい。僕はそこから逃げ出したのだ。「パワーシフト」はいかにその問題を解決するべきか、その糸口を探ろうとするものだが、今の僕にはどれも不可能ななしえない問題ばかりに思える。

1995年9月12日  「責任の分担を必要とされている職に申し分なく適しているとは限らない」「産業革命の重要なイノベーションは・・・労働者も交換可能とみなされた」事だった、しかし今や「知的労働者はますます取り替え不能になってきている」と語られている。僕は仕事をしている間、もし自分が欠けても仕事全体に支障が起きないように、気をかけていた。もちろん自分だからこそできることを見いだして喜びを感じもしていたが、たとえ自分がいなくとも誰かに置き換え可能であることを知っていた。それは事実だった。しかしトフラーは今後置き換えが不能な状況になっていくだろうと語っている。なるほどそうかも知れない、しかし企業はそこまで個人に依存していては危険であり、まだここしばらくは交換可能な状況が続くだろう。そして僕は交換されることを望んだのだ。

1995年9月21日

 午前1時30分:アルビン・トフラー「パワーシフト(下)」を読み終える:読みながら色々な自分の今までの出来事がビンビンと蘇ってくる。彼に言わせると今や世界の勢力は、アメリカとEC諸国、そして正に日本に大きな力があるという。日本はその経済力をもって世界に何らかの貢献を望まれてるのだ。その半面世界は今まで以上の混乱の時期に突入し、ソ連の崩壊によって、多くの近隣諸国が核兵器を持ってしまった。正に恐るべき状況にあるのだ。中国とフランスが国際世論の強烈な反対を押し切って核実験を行なった。それほど自国以外の国が信じれないのだろうか、悲しいながら、信頼できるような状況ではない。どこの国も自信暗鬼に陥り自国だけの発展を願っている。そして今や日本とドイツが力を持ちかつての第2次世界対戦の不安を抱いている国が少なくないのだ。今僕は明治維新の時代にも似た激動の世界に生きているのかも知れない。その中で何をすべきなのか、何ができるのか? 職場にしがみつくことでは何もできずにただ消耗していくだけだろう。じっと一人静かに世界を眺めメッセージを世界に送ることができるなら、どんなだろう。話は変わるがECの統一は、先日読んだ村上春樹のヨーロッパでの生活を読むにつけ、非現実的に思えてくる。暗いイメージの英国人・何でも真面目なソイツ人・楽天的で無責任なイタリア人、余りにも国における国民性・生活・文化が違っている、それを統一することはいかに難しいだろうか。いかにECが統一されると強力になるか議論されているが結局無理ではないかと感じてしまう。日本もバブルがはじけ低迷している。アメリカも国内に問題を抱えている。地球連邦が成立するにはまだ時間がかかるだろう。しかしそれを目指して日本から世界へメッセージが送れたらと思う。自分の明日の生活もままならいのに、大きなことを考えているている自分。でもここで挫けてしまってはだめだと思う。呑気におおらかに何とかなるさと腹を決めて、自分の生きた証を立ててみたい。


 ところでパワーシフトの中でワンダーフォーゲルに関する記述があった。「1920年代のドイツで起こった青年運動で、いわばワイマール共和国時代のヒッピー・グリーン運動家達で、彼らは、ギターを抱え、草花を身に付け、ウッドストック式のフェステバルを開き、超俗性に心酔し、自然への回帰を説いた」のだそうである。なんとヒッピーだったんだ。でも「超俗性に心酔し、自然への回帰」と言うのは僕にぴったりだな。


 山口彰「楽天的に生きる人間ほど成功できる」を読み終える。「人間万事塞翁が馬」と言う言葉が出てきた。大金が入らなくてよかったのかも知れない。大金が入ったら僕はどうしようもない屑になっていたかも知れないのだ。しばらくは苦しい日々が続くだろうが頑張ってみよう、そんな気持ちになった。


1995年10月10日

 午後9時30分:ミヒャエル・エンデ「モモ」(時間泥棒と盗まれた時間を人間に取り返してくれた女の子の不思議な物語)を読み終える。面白かった、また本当に沢山の啓示があった。この本を読んで心から良かったと思う。人間として生きる上での喜びとは何か、生きている証とは何か、また欲望に目がくらみやすい現代人の陥りやすいわなとは何か、友達をいかに大切にすべきか、などが宝石をちりばめたように書かれてあった。″パパラギ″に劣らない目から鱗が落ちる思いの本だった。こういう人間の本質を問う物語と、トフラーの様に、現代の時代がどう動いているかを問う物語は、時として矛盾を提起するけれども、いずれも見失ってはならないものだと思う。そしてもう一つ、仕事は心をこめて誇りをもってすることだということ。そう、それはどんなに素晴らしい事だろう。しばらく僕はこのことをどのようにして人に伝えたらよいかを考えた。今度の組合の執行委員会で、今度のカウンセリングの場で。頭の中で言葉にしてみた、でもうまく伝えられそうもなかった。そこで僕はもう一つのエンデの作品「はてしない物語」を読み始めた。

 

 トフラーを読んだ1995年から30年の時が過ぎた今(2023年)のなんと世界が変わっていることだろう。ECからイギリス離脱、新型コロナによるパンデミック、ロシアがウクライナを侵攻、中国が覇権を強め、民主主義が揺らぎ始めた。かたや置き換え不能と言われた知的労働者は、AIに置き換わろうとしている。

 こういった情勢の激変には目が眩むようだが、こうして振り返ると、だからこそ不変なものがあるようにも思える。喜びとは何か、生きている証とは何かということ。そして友達の大切さ、人との関わりの大切さだ。


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