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フライパン

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 5月8日
  • 読了時間: 3分

更新日:5月12日

2025/5/8



 喫茶店「1.9Lの魔法びん」のカウンターの奥、いつものようにマスターがコポコポと湯を落としている。午後の陽がアーチ窓をくぐり、床に小さな光の楕円を描いていた。


 その席に、古びた紙袋を持った男がひとり。革のカバンは擦り切れ、ジャケットの袖には小さな焦げ跡がある。どこか物静かなその人が、ふと袋の中から取り出したのは、黒く光るフライパンだった。


 「マスター、これ……処分してもらえないかな」


 言葉少なに差し出されたそのフライパンを、マスターは受け取って、手のひらで重さを確かめた。それはずしりと重く、馴染んだ鈍い光を放っていた。


 「なかなかの風格ですね」


 「ただの古道具さ。最初は焦げ付き防止のテフロン加工だった。でも、あっという間に禿げた。どんなに気をつけても、焦がしてしまうもんだよ。使い込むほどダメになっていく、そんなふうに思ってた」


 マスターは、黙って聞いている。男は話を続けるようで、言葉を選びながら小さく笑った。


 「でもある日、ふと気づいた。焦げ付かなくなってたんだ。ゴシゴシ洗って、なんとなく使い続けて、気がつけば……育ってた。いつのまにか、なんとも言えない“こなれ感”が出てきた」


 男はフライパンを見つめる。目尻に、深く刻まれた皺があった。


 「けど、もう俺には少し重い。今の暮らしに、このフライパンの重さは少しだけ過ぎててね。新しいのを手に入れたんだ。軽くて、小さくて、今の俺にちょうどいいやつを」


 マスターは頷いて、しばらくフライパンを眺めていた。


 「たぶんこのフライパン、あともう十年くらいは働けますよ。僕が引き取って、ここで使いましょうか」


 男の目が一瞬だけ見開かれる。それから、何か安堵のような表情で、彼は深くうなずいた。


 「そうしてくれたら嬉しい」


 その日の夕方、マスターは厨房の奥で油を熱し、焦げつかないようゆっくり卵を落とした。じゅっという音が、店の奥に広がっていく。


 まるで、長く連れ添った道具が、新しい生活のはじまりを告げているような音だった。



「フライパン」(了)



あとがき


 黒光りするフライパン。ずいぶん汚れてしまったけれど、もとはピカピカだった。今じゃ、その頃の輝きはもうない。でも、ピカピカだった頃よりいい塩梅に焼けるようになった。テフロンもハゲてしまったけれど、油がよく馴染んだ鉄のフライパンのようだ。


 最初に買ったのは、テフロン加工のない鉄のフライパンだった。育て方を調べて、その通りにやってみたけれど、使えば使うほど焦げ付くばかりだった。だから次は、テフロン加工されたフライパンを手に入れた。最初は良かったけれど、これもだんだん焦げ付くようになった。結局、どちらも同じようなものだった。僕にとって、フライパンはそういうものだという認識が育ってしまった。


 母が「貰い物だけど」とフライパンをくれた。テフロン加工された、大きめのフライパンだった。長持ちは期待せず、特別なこともせず、ただ丁寧には扱ってきた。フライパンというものは、どれだけ丁寧に使おうとしても、ちょっと気を抜けば空焚きしたり、焦げ付かせたりしてしまう。このフライパンも、やっぱり最初は良かったが、テフロンが剥げてくる頃には、やっぱり焦げ付くようになった。


 焦げ付いたのは、テフロンの禿げたところだった。でも、そんなことはあまり気にせず、焦げ付けばゴシゴシ洗った。そして、全体のテフロンが剥げきる頃、油が馴染んできたのか、焦げ付かなくなった。不思議と、黒光りするフライパンになっていた。


 なんだか──うまくは言えないけれど、人生も、そんな感じだったような気がする。


そんなことを思いながら出来上がった物語。

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