top of page

あの夏の午後

執筆者の写真: NappleNapple

更新日:2024年11月29日

2024/11/27



 蝉の声が降り注ぐ夏の昼下がり、陽翔(はると)は自転車を降りて、川沿いの道に立っていた。その日はやけに空が白っぽく、すべてが光を吸い込んでいるようだった。気まぐれに走らせた自転車の先で、ふと目に留まったのが花乃(はなの)だった。転校生の花乃が、川べりの石に腰を下ろし、膝の上のスケッチブックをじっと見つめていた。


 花乃の存在は、陽翔にとって特別でもなんでもないものだった。教室の隅でひっそりと座っている彼女を、たまに見ることはあったが、話をしたこともない。ただその時、風に揺れる黒髪の向こうに覗いたスケッチブックが妙に気になった。


「何、描いてるんだ?」


 そう言った瞬間、自分の声がやけに大きく響いたような気がして、陽翔は少し恥ずかしくなった。けれど花乃は驚いた様子もなく顔を上げ、静かにスケッチブックを差し出した。


 描かれていたのは、目の前の川とその周りの景色だった。ただし、それは陽翔の見ている川とはどこか違っていた。光がきらきらと水面を踊り、岸辺の草むらまでもが生き生きと輝いて見える。


「これ、本当にここ?」


陽翔がそう尋ねると、花乃は少し困ったように笑った。

「うん。私にはこう見えるの。おかしいかな?」


「おかしくなんかないよ。」

陽翔は絵をじっと見たまま答えた。それから二人の間には、蝉の声だけが響いた。 


 

 数日後、二人はまた川沿いに集まり、陽翔は花乃に自分の秘密の場所を教えることにした。それは、田んぼの奥にある大きな一本の楠(くすのき)だった。木漏れ日が葉を通して地面に映り、その光景は陽翔にとって特別な場所だった。


「ここ、ずっと一人で来てたけど……花乃なら気に入るかもって思った。」


 花乃は目を輝かせ、スケッチブックを広げて絵を描き始めた。その姿を見て、陽翔は不思議な安心感を覚えた。


 その夏、陽翔は花乃を通して世界が少し違って見えることを知り、花乃は陽翔のおかげで自分の見方に自信を持てるようになった。


 

 夏の終わり、花乃はまた転校することになった。最後に楠の木の下で会った時、花乃は一枚の絵を陽翔に渡した。それは、楠の下に立つ陽翔の姿を描いたものだった。


「これ、ありがとうの代わり。」

花乃はそう言って、少し笑った。その笑顔が、陽翔の胸に強く焼き付いた。


 彼女が去った後、陽翔はその絵を何度も見返した。何かが胸の奥で動いているのを感じたが、それが何なのかはわからなかった。ただ、花乃の描いた自分は、少しだけ大人びた顔をしているように見えた。


 

 数年後、陽翔は大人になり、忙しい日々を送っていた。けれど、部屋の片隅に飾られた一枚の絵を見るたびに、あの夏の記憶が鮮やかによみがえる。


「あの夏、俺は少し大人になったのかもしれない。」


 陽翔はそう呟き、もう一度絵を見つめた。


「あの夏の午後」完



 

補足


 これはアイデア「あの夏に・・・」を膨らませたものだ。

閲覧数:42回0件のコメント

最新記事

すべて表示
音階

音階

カホン

カホン

Comments


bottom of page