2023/2/18
鈴木光司との出会いは「リング」だった。
私が出会った鈴木光司の作品。
1998年 リング
1998年 らせん
2000年 リング0バースデイ
日記に綴られた鈴木光司にまつわる思い。
1999年4月4日(日)
寝坊してしまった。9時半。とんとんと玄関をノックする音で目覚めた。硲さんが待っていた。少し遅れますと伝えて先に行ってもらい、大急ぎで着替えをして、歯を磨き家を出発した。高丘工場の駐車場にはみんな待っていた。大塚さん・後藤夫妻・本間さん・あっちゃん・鷲尾・そして硲夫妻だ。懐かしい人たちばかりだ。実は硲さんが誘いに来てくれたとき「僕が行くと皆迷惑じゃないだろうか?」と素直に聞いたのだった。硲さんは「そんなことないよ」と言ってくれていた。でも皆に会うまで、何となく気恥ずかしいような、へんてこりんな気分だった。そしてみんなにあって、そんな心配は何もなかったことが分かってとても嬉しかったのだ。早速鷲尾に、もう随分前に借りていた本を3冊(「リトルトゥルー・風の果て上下巻)を返す。本間さんと後藤の車に相乗りして、9人で浜松城公園へ行き櫻を見ながら公園内をそぞろ歩きをした。曇り空だったけれど、櫻は見頃で、沢山の人たちが、宴会をしていた。選挙間近と言うこともあって、立候補者がここぞとばかりに愛想を振りまいていた。大塚さんに記念品をあげた。いまの僕は無駄遣いはできないから、家にあるものを探した。すると、中国へ行ったとき土産ように買ってきた刺繍があった。簡単なメッセージを付けてこれをあげることにした。高価なものではなきけど、何となく気持ちは伝わるだろう。硲夫妻が、健康グッズをあげていた。この刺繍は、母の日に、母にあげようと思ったものだった。3枚まだ残っていたので、自分用は残すのをやめ、大塚さんと、鷲尾と、母にあげることにしたのだ。大塚さんは「わーきれい、これ中国のなの」と言って喜んでくれた。僕達が小休止したところの後ろで宴会している人たちが騒だ。候補者と一緒に来ている人と写真を撮ったり、サインを求めたりしていた。大塚さんが「随分濃い顔の人だねえ、誰だろう?」という。優子ちゃんが「鈴木なんとか、とか言ってたよ」「まさか鈴木光二とかじゃないよね」冗談のつもりで、知ってる鈴木姓を言うと「そうそう、そんなこと言ってた。投票用紙に鈴木光二とは書かかないでよ、とか言ってたから」「だれその人?」「まさか作家の鈴木光二じゃないよね、リングとか書いた?」「そうそう、誰かがリングとか言ってた」「えーっ!!、なんで鈴木光二が、ここにいるの?」「親戚だとか言ってたよ」と言うわけで。奇しくも、いま人気の作家鈴木光二にあうことがで来た一幕だった。「あの小説はよくできてて、映画や、テレビでやったよりも原作がいいんだよ」なんて知ったか振りで大声で話してたら、すぐ後ろにいたので恥ずかしくなって話すのをやめた。結局僕はサインとかしてもらわなかったけど、鈴木光二にあえて満足だった。一通り公園を一周した。会社勤めしてる頃はあまり縁がなかったけど、会社を辞めてからこの公園にはちょくちょく来る。日本庭園などもあっていい感じだ。秀夫さんの会社を手伝ったときは、茶室の工事をやったこともある。何となく苦い思い出となりつつある。そんなことはどうでもいい、古くからの友人たちと、他愛もないことを話しながら、公園を歩けるのは素敵な事だった。そろそろお昼でお腹が空きだした頃、マイン・シュロスと言う浜松地ビールレストランへ向かった。きゃぴてるの仕事でアクトに出かけたり、結構このレストランの前はよく通り過ぎて、一度入ってみたいと思っていたところだった。大きなホール状の店内は、ドイツのどこかのビヤホールのような雰囲気だ。何を頼んでいいのか分からず、皆が頼むのを食べることにした。ビールをピッチャーで頼んでまず乾杯。ドイツと言えばウインナー。ウインナーの盛り合わせや、サラダ、パン、肉、チーズ、ピッツア。次々と料理が運ばれてくる。もうお腹が一杯だ。最後にビールゼリーという不思議なものを後藤が頼んだ。気味悪がったけれど、結構美味しく好評だった。食べ物は皆でつついた。誰かが変わったビールを頼むと回しのみをし。デザートはいろんな種類を頼んで、やっぱり回し食いをした。本当にお腹いっぱいだった。大塚さんが記念に灰皿がほしいという。こっそり僕の服の内ポケットに忍ばせた。学生時代の気分だった。随分飲んで食べて、大塚さんはお客さん扱いと言うことで、一人5000円だった。よかったと思う。僕は懐に2000円残すことがで来た。これで誰にも借りずに済んだし、あとしばらく暮らすこともできる。岡崎へ帰るガソリン代もいることだし。実際心細かったのだけれども、そのことを一言も誰にも言わずに済んだのでほっとした。誘ってもらうのはありがたいが、いまの僕はあまり外で外食したり遊んだりできる身分ではない。マイン・シュロスで後藤夫妻と別れた。でもあとに残った7人もそのあとどこかへ行くわけでもなく高丘工場の駐車場へ戻った。そこであっさりと解散して帰ってきた。4時頃には家に戻ることがで来た。
夜両親と今日のことを話した。今月は選挙が全国的にある、そんなこともあって、両親を選挙に連れていってあげる約束をしたから、家に帰るのが10日頃と言うことになった。まだ一週間ほどある。実に懐が寂しく、米が今日でちょうど終わりだったり、買い置きの食料もほとんど底をついていたので、早く帰りたかったのだけれども、そういう理由で帰りたいのだとは言えなかった。両親は「おかねはまだあるかい?」と聞いてくれる。聞かれるとつい「うん、まだ大丈夫」と答えてしまうのだ。この春から実家は組長をすることになり、何かと忙しいらしい。初めは張り合いがで来ていいと思ったのだけれども、世話をかけられない状況にもなったわけだ。最近永田さんが来て、ようやく仕事らしき形ができてきたことを話してくれた。永田さんはあまり仕事の話しをしなかったが、仕事の資料などを持ってきてくれたりした。一緒にできればと思っているのだと思う。そろそろ僕も、仕事をなんとかしなければと思っているところでもあるし、考えてみようと思う。
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