2025/1/3
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夜明け前の散歩は、律人にとってひそかな儀式だった。寒さで指先がかじかみ、息が白く煙る。それでも、彼は決まった時間に家を出て、いつもの道を歩く。街灯と星あかりだけが頼りの世界は、薄闇に包まれたまま眠っているようだった。黒く塗りつぶされた景色の中に、わずかな光が形を浮かび上がらせる。風に揺れる枝の影や、遠くで軋む音が、見えない何かの存在を思わせた。
律人はイヤホンを耳に差し込み、音楽を再生する。流れるメロディーが静寂を埋め、寂しさを遠ざけてくれるはずだった。しかし、それでも耳元をすり抜ける風の音や、かすかな物音がやけに鮮明に聞こえてくる。視界に何かが映る気がして振り向くが、そこには誰もいない。
彼は以前、もし五感をすべて失ったらどうなるのだろうと考え、恐怖に襲われたことがあった。音も、光も、香りも、すべてが消えた世界――それは、今この薄暗い景色に少し似ている気がした。しかし、五感が失われても、重力や時間の流れは残るのではないか。そんな風に考えると、律人は自分がこの静寂の中に取り残される未来を想像して身震いした。
そのとき、かすかな靴音が背後から近づいてきた。律人は反射的に振り返った。
「おはようございます。」
声をかけたのは、いつもすれ違う女性だった。彼女も決まった時間に散歩をしているらしく、互いに顔だけは覚えていた。長い髪を後ろで束ね、黒いコートに身を包んでいる。名前も知らない彼女に律人は軽く会釈を返した。
「寒いですね。」
「ええ。」
それだけのやり取りだったが、律人の胸の奥にわずかな温かさが灯った。彼女は歩き去るとき、一瞬振り返り微笑んだ。律人はその笑顔を目に焼き付けながら、ふと気づく。
この世界は決して色を失ってはいない。暗闇に目が慣れると、そこには微かな色彩が潜んでいた。風に揺れる木々の影も、遠くで軋む音も、イヤホン越しに聞こえる音楽も――それらはすべて、まだ彼がここに生きている証拠だった。
律人は再び歩き出した。夜明けまであと少し。空が静かに色づき始めるころには、この奇妙で美しい世界も、またいつもの日常へと溶け込んでいくのだろう。
そして彼は思った。五感が失われても、きっと心は何かを感じ続けるのだと。
「暗闇に目を凝らす」完
あとがき
同じ時刻に散歩をするという、些細なこだわりのせいで、ここしばらくは夜明け前の寒空の下を歩いている。街灯と星あかりのおかげで真っ暗ではないものの、ほとんどが黒く塗りつぶされ、色彩を失った世界だ。暗闇に目を凝らせば、その中に何かが見えたり、あるいは見えなかったりする。明るい世界よりも、気配だけが濃く漂っている。イヤホンから流れる音楽のせいか、寂しさは感じない。それでも、時折イヤホン越しに響く風の音や、何かが軋む音が、ありもしない想像を掻き立てる。そんな小さな恐怖をどこか楽しんでいる自分がいる。
以前、もし五感を失ったらどうなるだろうと想像し、卒倒しそうになったことがある。それでも、五感を失ったとしても、重力や時間の流れは感じるのではないか――そう思うと、夜明け前のこの世界は、五感を失った世界と少し似ているのかもしれない。そんなことを考えながら、私は暗闇にそっと目を凝らした。 そうだこれをそのまま物語にしてみう。
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