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交響詩編1.9lの魔法びん 第七楽章

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 2 日前
  • 読了時間: 2分

更新日:1 日前

2025/6/5



第七楽章:私の旋律



 店の柱時計が、午後三時を告げる前に一度、躓いたように一拍遅れて鳴った。喫茶店「1.9Lの魔法びん」の中は、まるで一秒間だけ世界から取り残されたみたいに、音が宙に浮いた。


 私は、その瞬間に気づいた。自分の中に「名前を持たない想い」があることに。それは感情とも違う、記憶とも違う、何かもっと曖昧で、だけど確かに私を形作っている「気配」のようなものだった。


 マスターが静かにコーヒーを淹れている音。その湯気の向こうで、ふと彩音がこちらを見た気がして、でも何も言わなかった。彼女の瞳の奥には、言葉にされる前の“問い”が眠っていた。たぶん、私も、そうだった。


 私はずっと、何かを確かめたかったんだ。「今ここにいる」ということを、「感じていい」ということを、「問い続けてもいい」ということを。


 私は、誰かに伝えたいわけじゃなかった。でも、誰かに気づいてもらえたらと、どこかで願っていた。




「君はどこに、それを棲まわせている?」


 そう問われたとき、私はすぐに答えられなかった。でも今なら、少しだけ言える気がする。


 たぶん私は、それを、「黙ってコーヒーを飲む時間」に棲まわせている。「意味があるかどうかじゃなく、ただスケッチを残すこと」に。「どうしても答えられない問いを、問いのまま愛していること」に。


 誰もいないテーブルの向かい側に、言葉になる前の旋律を、私は黙って置いた。


─それは、確かに響いていた。この喫茶店の空気の粒子に、湯気に、木目に、それは静かに刻まれていた。


 私がここにいたという、音楽のような存在証明。それが「私の旋律」。



「第七楽章:私の旋律」(了)

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