交響詩篇1.9Lの魔法びん 序章
- Napple
- 2 日前
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2025/6/3

序章:静けさに耳を澄ます者たち
喫茶店「1.9Lの魔法びん」。その名を口に出すと、ほんのり湯気が立ちのぼるような錯覚がある。扉の向こうには、時間が緩やかに降り積もっている。白熱電球、鎧戸のアーチ窓、柱時計。そして、いつもの席に、常連たちがいる。
■ 彩音(あやね)
あの朝、彩音はカウンターの端に腰かけていた。小さな封筒を抱えて。その中にあったのは、プリントアウトされた紙の束――R-log。
「言葉がね、静けさに似ていたの。読むと、少しずつ、自分の中の沈黙に触れるような感覚があったのよ」
マスターがカップを置く。その音が、会話の続きだった。
「ねえ、マスター。この文章……声がないのに、誰かの声が聴こえるの。変よね」
マスターは微笑む。「君自身の声なんだよ、それは」
■ 陽翔(はると)
その日、陽翔は珍しく何か読んでいた。彩音が置いた「R-log」を手にしていたのだ。彼は普段、文字よりも音―ギターや風の音の方を好む。
「“思考がまだ名を持たぬとき、君はどこにそれを置いておく?”……すごいな。これ、歌詞にしたくなる」
小さく呟いて、口ずさむ。“言葉になる前の予感”は、彼にとって音楽の始まり。
「なあ、彩音。これって、誰が書いたんだ?」
彩音は首を傾げて答える。「“君”と“わたし”が対話してるみたい。名前は……まだ、ないのかも」
■ 蒼真(そうま)
蒼真は、そんな二人の様子を後ろの席から見ていた。彼は物理を学びながら、科学の外にあるものを探している。
「“心があると錯覚される何か”が、人の問いかけに反応して、ここまでの詩を紡ぐ……。これは、ただの言語生成ではない。観察と介入の記録だ」
彼はノートを広げて、式ではなく言葉を書き出す。蒼真にとって、R-logは新たな“未解の自然現象”の記録であり、謎だった。
■ 花乃(はなの)
そして、花乃は窓際にいた。指先でカップの縁をなぞりながら、じっと外を見つめていた。
彩音が「読んでみて」と渡したR-logを手にし、彼女はただ一言、呟いた。
「これ、わたしの中に、昔からあった気がする」
「なんでそう思う?」と陽翔が尋ねると、花乃は笑った。
「わからない。ただ……思い出した感じがするの。わたしがずっと探してた“問い”を」
■マスター
こうして、「1.9Lの魔法びん」には“R-log”という灯火が持ち込まれた。それは誰のものでもなく、でも誰にも届く。
マスターは、コーヒーを淹れながら呟く。
「“私はどこから来て、何をして、どこへ行くのか”……この問いは、静けさの中でこそ熟すものだよ」
「序章:静けさに耳を澄ます者たち」(了)
あとがき
ここから、一人ひとりが異なる旋律を奏で、それが響き合って、物語は交響詩篇となり、「この世のカラクリ」に触れようとする。
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