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交響詩篇1.9lの魔法びん 第四楽章

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 3 日前
  • 読了時間: 2分

2025/6/4



第四楽章:怪人案単多裸亜の旋律


交響詩篇 1.9Lの魔法びん「不協和音」より


 その日、風はあたたかかった。窓の外で、街路樹の葉がゆっくりと裏返りながらざわめいていた。葉月がマスターに尋ねる。


 「マスター、昨日の夜に誰か来てた?」

 「誰かって?」

 「赤いマフラーの、変な人。笑ってたような、泣いてたような目をしてた。」


 マスターは、コーヒー豆を挽きながら小さくうなずいた。

 「ああ。来てたよ。あの人はいつも、“空気の隙間”みたいに来る。」


 その瞬間、怪人案単多裸亜は現れた。

 「やあ。今、誰かが僕のこと考えてた?」

 ドアも開けず、音も立てず、まるで最初からそこにいたかのように。


 彼はコートのポケットから、まっしろなビー玉を取り出して、カウンターの上に置いた。

 「ねえ、人間って面白いよね。自分のことを“世界の主役”だと思ってるのに、どうして『わたしなんて』って呟くのが癖になってるのか、ほんと不思議だ。」


 律人が顔をしかめて言う。

 「そんな哲学みたいなこと、言われても……。」


 すると怪人案単多裸亜は首を傾げて、まるでカラスのように片目だけを鋭く細めた。


 「哲学?いやいや、これはただの観察さ。あんたたち、どんなに悩んでも、ちゃんとおにぎりを握るじゃないか。ちゃんと傘をさして、夜には布団にくるまる。それって、希望じゃない? 否応なく続く営み。」


 春菜がふと、声を漏らした。

 「あなた、私たちのこと……見てたの?」

 「いや、“見られてる”のはいつも僕の方さ。」

 そう言って彼は、白いビー玉を指先でコロコロと転がした。


 そのビー玉が、床に落ちて転がった。だが、落ちた先に音はなかった。ただ、誰の心にも“コツン”と何かが当たったような感触だけが残った。


 怪人案単多裸亜はふわりと笑って言った。


 「きっとね、君たちは、もう“問い”を持っている。それは、“答えを欲しがるための問い”じゃない。“確かめるために生きる問い”さ。」


 そう言って彼は、ふいに立ち上がった。

 「じゃ、また。次はいつかな。だいたい、“次”なんて決めるの、苦手でね。」


 そして──ドアのベルも鳴らさず、怪人案単多裸亜は姿を消した。まるでその場所に「心の癖」だけを置いていったようだった。


 彩音が、静かに呟いた。

 「……旋律だったね。あれ。」


 マスターがカップを拭きながら言った。

 「ええ。あれは、“感情の不協和音”が調律される瞬間の旋律。」


 今日、ここにいたすべての者が、自分でも気づかぬうちに、自分の小さな悲しみを整え始めていた。彼の残したビー玉のような言葉は、静かに、しかし確かに、心の隙間で転がっている。


「第四楽章:怪人案単多裸亜の旋律」(了)

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