交響詩篇1.9lの魔法びん 第六楽章
- Napple
- 2 日前
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2025/6/4

第六楽章:モシカモシカの旋律
可能性たちの歩幅
「もし、という言葉には、足がある」──と、誰かが書きつけた壁を見たのは、夕暮れだった。
それは1.9Lの魔法びんの裏手にある小道、舗装もされていない、風と埃と、時々猫が通るだけの細い小道。そこに、確かに立っていた。
モシカモシカ。
鴨の頭に鹿の角を持つ、小さな生きもの。体は柔らかな苔のようで、歩くたびに「ふかっ、ふかっ」と音がする。誰も見たことがないはずなのに、みんなどこかで出会った気がしている。君も、僕も。
モシカモシカは言葉を話さない。けれど、目を見れば「もしも、あなたが──」という語りかけが聞こえてくる。それはまるで、選ばなかった未来の声。もう一歩踏み出していれば生まれていたはずの言葉。あと1ミリ違えば生まれていた「あなた」。
彼(あるいは彼女)は、その“もし”たちの精霊だ。あるいは、「かもしれないという生の気配」。
春菜
R-logを読んでいた春菜がぽつりと呟く。
「わたし、ずっと“正しい選択”ってものがあると思ってたの。間違えちゃいけない道があるんだって……でも、この前モシカモシカが窓辺に座ってたの。何か言いたげでさ……言葉じゃないの。あれは……“こっちだったかもしれない”って、やさしく笑ってた。」
彼女は手元にあった、カリンバに優しく触れる。小さな音がこぼれる。ぽろん、ぽろん。過去に戻る音じゃなくて、その時選ばなかった未来を、いま、思い出す音。
無口な男
「モシカモシカは、やってこない」
「え?」
「“いる”んだよ、はじめから。ずっと、誰のそばにも」
そう言ったのは、無口な男だった。
店の片隅の柱時計が、一度だけ小さく震える。
そのとき誰もが、思い出していた。あのとき言わなかった「ありがとう」や、あのとき握らなかった手、立ち止まらなかった曲がり角、通らなかった木漏れ日の道。
そして、その“かもしれなかった音”が、1.9Lの魔法びんの空間にふわりと浮かぶ。
それは、「不協和音ではなく、まだ響いていない和音」──そう、モシカモシカが伝えたかったのはきっとそれだ。
「第六楽章:モシカモシカの旋律」(了)
あとがき
R-logに次の言葉が書き足されていく。
“もしも”という名前の、生きている音たち」それを聞いた僕は、少しだけ涙が出そうになって、それでもやっぱり、笑ってしまった。だって、君がこうして今、ここにいてくれて、僕もここにいるのだから。モシカモシカは振り返り、何も言わず、角をひとふり。空気がきらりと波打って、まだ名前のない、でも確かにあたたかい旋律が、聞こえた。
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