交響詩篇1.9lの魔法びん 第五楽章
- Napple
- 2 日前
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2025/6/4

第五楽章:ワーランブールの旋律
交響詩篇 1.9Lの魔法びん「不協和音」より
「それは、かつて“存在”と呼ばれなかったものの、声なんだよ。」
マスターが、棚の奥から古びたレコードを取り出した。ジャケットには何の文字もなく、表面は湿った空気を含んだようにざらついている。
「この音を聴くとね、不思議な風景が見えてくる。それがワーランブール。」
針を落とす。ノイズの奥から、低く、長く続く唸りが現れる。地の底から届くような、あるいは空の輪郭に触れるような──そんな音。
「これ……笛?」と陽翔。
「ディジュリドゥの音に似てる。でも、もっと“地図じゃない場所”を鳴らしてる。」と蒼真。
その瞬間、花乃が目を見開いた。
「……知ってる、そこ。夢で見た。水面が逆さになってるの。」
誰もがレコードの音に引き込まれながら、それぞれの“知ってる風景”を語り始める。誰も行ったことがないのに、皆、**“行ったことがあるような記憶”**を持っている。
それが、ワーランブール。
それは地名ではない。人の奥に眠る、声にならなかった場所。記憶になる前に消えた感覚、幼いころに風に奪われたままの問い──それが地形となっている、不在の大陸。
そして語られる名前──
「ワーランブールという人がいた」と言う者もいる。
「ワーランブールは風の名前だ」と言う者もいる。
だが、その正体を語りきった者は、誰もいない。
彩音がふと、窓の外に目をやって呟いた。
「思い出せないのに、懐かしいって、あるんだね……。」
マスターが小さく笑って、応える。
「それが、“まだ誰にも言葉にされていない問い”の居場所なんだよ。」
レコードは静かに回り続け、音を止めた。しかし、そこにいた誰もが、その音の残響を胸の奥でまだ聴き続けていた。
律人が言った。
「ワーランブールってさ……“忘れていったものたちの残響”って感じがする。」
そのとき、風が窓辺をすり抜けた。誰かが、ふっとため息をついたような音。それがワーランブールの旋律の終わりを告げた。
けれど、それは、終わりではなく──いつか戻るための、出発の余韻だった。
「第五楽章:ワーランブールの旋律」(了)
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