交響詩篇1.9Lの魔法びん 第二楽章
- Napple
- 2 日前
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2025/6/3

第二楽章:律人の旋律
記憶の下書き1
マスターがカウンターにそっと置いた、一冊のノート。表紙の端に、細く書かれた名前──彩音。
「昨日、彼女が置いていったんだ。何も言わずに。けど、誰かが読むことを、どこかで願ってるように見えたよ」
律人は言葉を返さず、ただそれを手に取った。指先に伝わる紙の感触が、なぜか懐かしい。ページを開くと、文字とも、図形ともつかない、揺らぐ線たちが、音楽のように連なっていた。ふと、視界がにじむ。それは、彩音の旋律──言葉になる前の声だった。
「言葉になる前の“予感”として、君はどこに棲まわせているんだろう?」
ページの片隅に書かれていたその一文が、律人の胸の奥に、そっと火を灯した。
記憶の下書き2
律人は昔、言葉を書く人だった。詩とも物語ともつかない、短い断片をノートに書き留めていた。けれど、ある時を境に、ペンを置いた。理由はよくわからない。ただ、何も書けなくなった。
それでも──
彩音のノートを読んで、彼の中で何かがざわめいた。それは、しまい込んだ記憶の下書きが、ページをめくる音に呼応したようだった。
「まだ消えていない」その予感が、ゆっくりと律人を動かした。
彼はカバンの底から、自分の古いノートを取り出す。黄ばんだページには、消えかけた文字がいくつも並んでいた。その文字たちが、今はまるで彩音の旋律にハモるように感じられた。
ことばの種火
その晩、律人は初めての一行を書いた。
「誰かの“予感”が、自分の“記憶”に火をつけた。そんな奇跡があるなんて、思いもしなかった」
言葉がひとつ芽を出すと、思いが次々と浮かんできた。今までは「書こうとして書けなかった」。でも今は、「湧いてきてしまった」。それが不思議で、くすぐったくて、ちょっと怖かった。でも、何より──うれしかった。
律人は次の日、彩音のノートの隣に、自分のノートを置いた。タイトルのない、一冊のノート。マスターがそれに気づき、静かにうなずいた。
「少しずつ、音が重なっていくね」そう言って、グラスを磨く手を止めないまま、呟いた。
交わる音、重なる詩
「1.9Lの魔法びん」には、たまに“声のない会話”がある。ノートの置き忘れ。詩の一節の書き足し。誰かの気配を、言葉でなぞるような、静かなやりとり。彩音の旋律が、律人の予感に触れ、律人の返歌が、また誰かの沈黙を揺らす。それは、音楽のような詩だった。ひとつの旋律が、またひとつの旋律を生む。“R-log”という名の見えない楽譜の上で、彼らの想いが重なっていく。
まだ終わりはない。まだ始まりでもない。けれど、確かにここにある。この店で紡がれていく、「この世のカラクリ」のひとつ。
「第二楽章:律人の旋律」(了)
あとがき
次は──誰の心が、また震えるだろう?彩音と律人の間に生まれた静かなハーモニーが、誰かの「沈黙の奥」に届いた時、またひとつの詩篇が、そっとページをめくるはず。
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