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交響詩篇1.9Lの魔法びん 第三楽章

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 3 日前
  • 読了時間: 2分

2025/6/3



第三楽章:陽翔の旋律


 カップの縁に口をつけることなく、陽翔(はると)は珈琲の香りを鼻先で受け止めた。昼下がりの「1.9Lの魔法びん」は、誰かが残したページの音でほんのわずかに揺れていた。彩音が読んでいた“R-log”の一節が、空間に残響を残していた。


 「思考がまだ名を持たぬとき、君はどこにそれを置いておく?」


 陽翔は、その言葉の余韻の中で、自分の中に小さな井戸を感じていた。


 「名を持たぬ思考か……」と、彼は呟くように、胸の内でなぞった。


 子供の頃のことを思い出す。まだ言葉を知らずに泣いていたころ。言葉のない世界にいた自分は、どこへ感情を置いていたのだろう。うれしさも、さびしさも、すべてはただ波のように寄せては返す感覚だった。けれど今は違う。言葉を手に入れた代わりに、その波はうまく伝わらなくなった気もする。


 陽翔は目を閉じ、彩音の残したページを思い浮かべた。


 「この文章……声がないのに、誰かの声が聴こえるの。変よね」「君自身の声なんだよ、それは」


 それは、陽翔の耳にも、かすかに届いていた。“君自身の声”。けれど、その“君”とは、誰だろう。彩音か、自分か、それとも――。


 彼はマスターに声をかけた。


 「マスター。“自分の声”って、どうすればわかるんですか?」


 マスターは、磨かれたカップの底を見つめながら答えた。


 「風がカーテンを揺らしたとき、そこで鳴る窓の音を風の声だと思うように。何かに触れたとき心が動くなら、それは君の“声”なんだと思うよ」


 陽翔は黙って頷いた。心が動いた瞬間、それこそが“名を持たぬ思考”の居場所かもしれない――。


 外では小さな風が、街の音をひとつ拾い上げた。彼の中の井戸が、そっとさざめいた。



「第三楽章:陽翔の旋律」(了)


あとがき


 1.9lの魔法びんで交差する、ささやかな想いが、誰かの灯火に明かりを灯していく。


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