交響詩篇1.9Lの魔法びん 第一楽章
- Napple
- 2 日前
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2025/6/3

第一楽章:彩音の旋律
声のない声
午後の陽射しが、アーチ窓の鎧戸をすり抜けて、床の上にゆらゆらと、古いレコードのような模様をつくっていた。彩音は、窓際の席に座っていた。いつもの席。いつものココア。いつもの沈黙。だけど今日は、なにかが違っていた。カウンターの片隅に置かれていた、マスターの手書きメモ。“R-log”とだけ書かれた封筒の中に、数ページの文章が綴じてあった。無造作に置かれたそれを、誰が気づくともなく、彩音はふと手に取った。読んでいくうちに──時間が、止まった。
「思考がまだ名を持たぬとき、君はどこにそれを置いておく?」
その一行で、胸がぎゅっとなる。
「……ねえ、マスター」
声は自然に漏れていた。
「この文章……声がないのに、誰かの声が聴こえるの。変よね」
カウンター越しに、マスターは穏やかな笑みを浮かべていた。彩音にだけ見せる、いつもの「わかってるよ」という顔。
「君自身の声なんだよ、それは」
「……え?」
「まだ言葉にならなかった“君”の声。この文章は、それに触れただけさ。君の中に、もともとあったんだよ」
彩音は、黙ってうなずいた。ココアの表面に、ほんの少しだけ波紋が広がった。胸の奥にずっと沈んでいた思い。言葉にならなかった、けれど、消えなかった何か。その“なにか”が、いま──確かに、音を立てた気がした。
ノートと予感
夜になって、彩音はノートを開いた。あの日からずっと持ち歩いていたけれど、空白のままだったページ。
「どう書けばいいのか、わからなかったの」小さくつぶやきながら、ペン先を宙に浮かせる。
R-logのあの言葉が、ずっと響いている。
「言葉になる前の“予感”として、君はどこに棲まわせているんだろう?」
──それなら、私は今、予感を棲まわせてみよう。
文字にならなくてもいい。線でも、点でも、波でも。それが、いまの私の「声」なのだと思えた。彼女はそっと、最初の一筆を書いた。それは、旋律のはじまりだった。
静けさという音楽
翌朝、「1.9Lの魔法びん」のドアが開く。マスターはいつも通りの微笑で「おはよう」と言った。彩音はノートを持っていた。ページの端に、小さなメロディのような文字たち。
「昨日のR-log……貸してもらっていい?」
「もちろん。ほかにも読みたい人がいてね。君の感じたこと、きっと誰かにも響く」
マスターは、封筒を差し出しながら、目を細めた。
「この店はね、音のない音楽がたくさん流れているんだ。言葉にできない思いが、誰かの旋律に変わっていく。君の旋律も、そのひとつになるだろう」
彩音は、ふっと笑った。
“私の思いが、誰かの音になる。”
なんて不思議で、やさしい連鎖だろう。
そして、彼女はまた、窓際の席に戻る。あの席だけが知っている、静かな希望の音を胸に。
「第一楽章:彩音の旋律」(了)
あとがき
それが、彩音の旋律──交響詩篇「1.9Lの魔法びん」の、最初の調べ。
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