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七夕の日に

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 7月7日
  • 読了時間: 4分

2025/7/7


 梅雨らしい雨がないままに梅雨は明けた。今日は七夕だと誰かが言っていた。だからというわけでもないのだが、今日はアイスコーヒーではなく、温かいブレンドがよく出る。


 僕も一杯、淹れた。


 店にひとりきりのとき、珈琲を淹れても、すぐには飲まない。蒸らす湯気の立ち上がりを見ているうちに、ふと昔のことなどを思い出す。子どものころは、七夕が来ると、笹に短冊を下げた。願いごとは毎年違ったが、書くたびに、なんとなく背筋がしゃんとした。今夜、星が会うんだと思うと、ほんとうに空の奥がざわざわして、なんだか眠れなかった。


 若いころは、会えもしない織姫を、それでも探していたような気がする。出会えたかって? いや、どうだろうね。もしかしたら何度か、出会っていたのかもしれない。気づかなかっただけで。


 気がつけば、こうして、ひとりで七夕を迎えるのも何年目かになる。短冊はもう下げないし、星もいちいち数えない。でも、七という数は、今でもなんだか好きだ。縁起がいいような気がするし、ぞろ目になればなおさら。……意味はないけれど、意味があるような顔をして並んでいるのが、ちょっと面白い。


 ひとつ、願ってみようか。と思って、それから考える。いや、もうずいぶん、願いごとは叶った。贅沢なことだが、ほんとうにそう思う。叶わなかったものもあるが、それは叶わないままで、ちゃんとここにある。


 でも、それでも、やっぱり願いたくなるのが、人間というものらしい。だったら一番大きなやつを、とびきり素直にお願いしよう。


 「世界中の人たちが、皆、しあわせになりますように」


 そう言って、あつあつのブレンドに口をつけた。少し苦い。でも、そういう味がしていい夜もある。カウンターの片隅で、誰かが、静かに鼻歌をうたっていた。「ささのは さらさら……」と、幼い声で。それだけで、また今年の七夕が、やさしく終わっていくような気がした。


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 カウンターの奥で湯気の立つカップに向きあっていると、入り口のベルが控えめに鳴った。音だけで誰かわかる。あの子だ。


 「こんにちは」

 「ようこそ。今日も暑いね」


  彩音が小さな紙袋を抱えて入ってきた。紙袋の口から、短冊がのぞいていた。藍色の地に金の文字。少し古びた紙。ああ、それか、と僕は目を細めた。


 「引き出しの奥にありました。きっと、去年の七夕の」

 「なるほど。年を越して、帰ってきた短冊か」

 「なんとなく捨てられなくて。持ってきちゃいました」


 そう言って、彼女は短冊を一枚、そっとカウンターの上に置いた。それは僕の字だった。


 「……ああ、これ。僕が書いたやつだ。たしか去年、誰もいない時間に、こっそり吊るした気がする」


 彩音は小さく笑った。

 短冊には、こう書かれていた。


願い事 いつしか感謝に 変わりけり


 「いい句ですね」と彩音は言った。

 「……誰かが言ってた。『叶った願いは、時間をかけて感謝に育っていくものだ』って。

 だから、願いって、花よりも木に似てるんじゃないかって」


 「木?」


 「根が見えなくなって、いつの間にか空気みたいになるんです。忘れてるくらいが、ちょうどいい」


 そう言って彼女は、短冊を店の隅の一輪挿しに立てた。笹はないが、どこか似合っていた。カウンターの向こうから見ると、金文字が灯りに反射して、まるで夜空の星みたいだった。


 「ねえマスター、お願いって、今でもしますか?」

 「するよ。そっと、ひとりでね」

 「今夜は?」

 「……したよ。さっき」


 「どんな願い?」

 「世界中の人が、皆、幸せになりますように」

 「それって……すごく大きいですね」


 「でも、だれもが一度は思うんじゃないかな。たとえば、今みたいに」

 「……今みたいに?」

 「君がここにいて、短冊の話をしてる、そんな夜だ」


 彩音は黙ってうなずいた。カウンターに置いたカップから、やわらかい香りが立ちのぼる。外ではまた小さな風が吹いた。笹のない街で、どこかで願いが風に乗っている気がした。



「七夕の日に:交響詩篇1.9Lの魔法びん・七月七日篇」(了)



あとがき


 今日は七夕。子供時代は、短冊に願い事を書き、天の川を見ようと夜空を仰いだ。青年になると、この日を機会に織姫に出会うことを願ったりした。初老になっても、七夕は、なんとなく甘酸っぱい思いが湧いてくる。だからと言ってどうという事はないのだが、ああ今日は七夕だな。と、いつもとは違う日のような気になる。数字としても七は好きな数だ。理由などないけれど縁起がいい気がする。しかもゾロ目となれば余計いい。願い事をするにはいい日なのかもしれない。さあて、では、何をお願いしようか?ーーーああ、私はずいぶんたくさんの願い事を叶え、今日のこの日を迎えた。これ以上に願うのは贅沢というものか。まずはそのことに感謝をしよう。そして、それでも、やっぱりお願いしよう。世界中の人たちが皆幸せになりますように。そんな思いを物語にした。

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