2024/12/18
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森を抜ける
蝉の抜け殻を初めて見つけたのは小学生の頃だ。子供の頃は森の中を歩き回るのが好きで、どんぐりや栗、茸、虫や鳥、時にはリスまで見かけるのが楽しかった。何より森の空気は気持ちがよかった。ある日、足元にひからびた蝉の抜け殻を見つけた。それは自分が作ったどんなプラモデルよりも精巧で、どこか儚げだった。その頃に手に入れた骨貝と一緒に、抜け殻は本箱に飾られた。そして後に龍の落とし子の乾燥標本が加わり、三つの抜け殻は一つのセットになって保管された。大人になった今でも、それらは手元にある。
随分と時が経ってから、友人とサイクリングに出かけた際、蝉の抜け殻を見つけた。その瞬間、子供の頃に初めて蝉の抜け殻を見つけた日のことが鮮やかによみがえった。
蝉に限らず、脱皮する生き物は多い。蛇の抜け殻を見たこともあるが、それは大抵ぼろぼろで原形を留めていなかった。また、昆虫は無数にいるのに、蝉ほど完全な形の抜け殻を見つけることはほとんどなかった。
自然と残酷さ
初めて蛇を見た時のことは覚えていない。ただ、幼い頃に蛇の尻尾を掴んでぐるぐると振り回した記憶がある。そのうち蛇の頭が石にぶつかり、潰れてしまった。幼かったとはいえ、随分残酷で無謀なことをしたものだと今では我ながら呆れる。その記憶は鮮明で、どこかに自分の正体が潜んでいるような気がする。
子供時代は、ザリガニを釣ったり、カエルの皮を剥いで餌にしたり、アブの羽をむしって遊んだりと、今では考えられないようなことも平気でやった。それは自然との無邪気な戯れであり、時に残酷さを伴うものだった。だが、そうした体験があったからこそ、自然の偉大さや命の重みを知ったのだと思う。
成長するにつれ、蛇や虫を怖がるようになった。それでも草むらで蛇を見つけると、驚きつつも懐かしい気持ちになる。命あるものへの畏れと敬意が芽生えたのだろう。
生き物とのふれあい
ザリガニを釣るのは近所の小川だった。鋏の前に草を差し出し、それを獲物だと思わせて釣り上げる。捕まえたザリガニをポケットに入れて遊んでいたのだから、今思えば随分雑な子供だった。
カブトムシやクワガタは、自然が豊かな田舎ならではの出会いだった。手に這わせた感触や、独特の匂いは今でも忘れない。道端で死骸を見かけると、あの頃の夏の記憶が甦る。
カタツムリは触覚をちょんと突くと、ひゅっと引っ込む。その姿に笑いながら、30分後に少しだけ動いた跡を見て驚いた。自然の生き物たちは、静かに、確かに生きていた。
自然の中の発見
中学の生物の授業でジシバリを探した時、どうしても見つからず悔しい思いをした。その経験から、今ではタンポポとの違いがわかるようになった。背高泡立ち草とブタクサの区別は未だにつかないが、それも自然の中のささやかな謎として心に残っている。
ある日、神社の裏の林で見つけたキノコは、子供心に大きな発見だった。学校に持っていって飾られたキノコは、日常の中の特別な一瞬を与えてくれた。
自然とともに過ごした日々
家の裏山は、子供にとって冒険の舞台だった。ススキ野原を駆け回った時の、あの自由で猛々しい感覚。自然の中で、自分が自然の一部に還ったような気がした。
あの頃の私は、自然の中で生きる喜びと怖さ、命の尊さを学んでいたのだと思う。無邪気で残酷だった子供時代の記憶は、今となっては自然への畏敬と懐かしさへと変わった。
自然は常に私たちを受け入れ、教えてくれる。蝉の抜け殻一つにしても、それは命が生き抜いた証であり、同時に新しい命への道標だ。大人になっても、ふと自然に触れた瞬間、あの頃の記憶が鮮やかに蘇る。私にとって自然は、過去と現在をつなぐ、大切な時間の宝庫なのだ。
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