2024/12/3

創造の自由と著作権の矛盾
極端かもしれないが、映像や音楽、文章あらゆる作品が自由に参照され、コピーされ、転用され、改変できると、より自由で創造的で豊かな世界が広がるのではないだろうか。しかし、そこには「著作権」という存在が立ちはだかる。著作権が製作者を守り、利益を保証する仕組みとして必要な場面は多い。しかし、それが利権と創造を混ぜ合わせ、自由な創作を縛る側面があることも否定できない。
オリジナルの不在
そもそも、「オリジナル」とは何だろうか?スティーブ・ジョブズは、昨日誰かが言ったことを、今日あたかも自分が考えたように語ったという。それが本当かどうかはともかく、彼にとっては触発された言葉も「自分が考えたオリジナル」だったのだろう。いかなる創造も、過去に見たり聞いたりしたものに基づいている場合が多く、無から完全なオリジナルを生み出すことは極めて稀だ。むしろ、重要なのは、そうしたアイデアを広く分かち合い、新たな価値を生み出すことではないだろうか。
ネット上の「本物」と「偽物」
ネット上に拡散するアートを見れば、原画だけでなく、誰が描いたのかもわからない模写や加工品が無数に存在する。中には、模写に感動し、原画に幻滅することすらある。さらに、ネット上の画像はディスプレイの性能や撮影条件によって色味が変わり、もはや本物と偽物の境界線は曖昧だ。そうした状況を考えると、ネット上においては「本物」にこだわること自体、さほど重要ではないように思える。
著作権がもたらす制約
ところが、著作権はこうした創作の自由を縛る枠組みとして存在している。デジタルアートや音楽、文章といったデータは、本来コピーや改変が容易であり、それゆえに多様な派生や新たな創造を生む可能性がある。しかし、著作権による制約がその可能性を狭めているのではないだろうか。
著作権放棄の理想と現実
オープンソースの成功例が示すように、共有と自由を重視する仕組みが社会にもたらす恩恵は計り知れない。もし著作権による縛りがなければ、創作の自由は広がり、豊かになるだろう。だが、現実問題として、著作権を放棄することは容易ではない。創作活動には時間と労力、そして資金が必要だ。今やAIの登場により著作権のあり方はさらに複雑になった。お金の問題が解決されない限り、著作権を完全に放棄する社会は実現しない。
追伸
私の指示であってもAIが生成した画像は自分の作品だとは思えない。しかし、不思議なもので、文章となると、なんとなく作者は自分だという気がしてくる。概ねAIは著作権を主張しないため、既存の著作物に依らず生成されたものであれば、理屈では著作権は私にある。なるほど、そうだとしても、「私が書いた」と言い切るのは、どこか気が引ける。
AIがなければおそらく生まれなかったであろうものを、あたかも自分の手柄であるかのようにするのは、どうにもおこがましい気がする。それに、私としては、ただ気持ちよく思いを形にできればそれで十分だ。
「著作権なんて、いらない?」
「創造に鎖はいらない」
「本物も偽物もどうでもいい」
「オリジナル幻想」
「著作権は創造の敵か」
「誰の作品でもない世界」
「分け合えないアイデアに価値はあるか?」
「いいものはいい、ただそれだけ」
「著作権、それって誰のもの?」
「自由と金と創造のはざまで」
ああ、最後はぐだぐだ。
Comments