2024/11/29
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散歩で人と出会うと、挨拶がてら二言三言交わすことがある。天気の話や、道すがらの犬や猫の話だ。そんな会話は長くは続かない。互いに「ではまた」と言って別れるだけだが、たまに別れたがらない人がいる。最初はいいとしても、そのうち愚痴が始まる。厄介だ。急いでいるわけでもないから、話を切り上げるきっかけがつかめない。
道端で立ち話をしている人たちが何を話しているのかは知らないが、大層なことを話しているとは思えない。にもかかわらず、どうしてそんなに話したがるのか、不思議でならない。ことに愚痴や悪口なら、こちらとしては聞きたくない。だが、自分に置き換えてみると、愚痴のひとつも言いたくなる時があるものだ。その相手に捕まった人の気の毒さも、同時に少しだけわかる気がする。
若い頃は、人の輪の中にいることが多かった。いや、正確には、そうしようとしていたのだろう。人に良く思われたいという気持ちからだったのかもしれない。しかし歳をとるにつれて、そんな情熱は薄れていった。今では、人と話す機会自体が少なくなり、むしろ人を避けることすらある。人が自分をどう思おうと、以前ほど気にしなくなった。
それでも、ふと考えることがある。自分では気づかぬうちに、誰かを傷つけているのではないかと。同じように、傷つけられたと感じたことも、その相手には全く悪気がなかったのかもしれない。人と関わるというのは、面倒で難しいことだ。そんなことばかり考えていると、人と交わるのが億劫になる。
けれど、それがすべてではない。
時に、誰かの何気ない一言に励まされることがある。嬉しい気持ちになることもある。言葉を発した本人には、そんなつもりはなかっただろう。同じように、私の言葉で元気を出したり、喜んだりした人がいないとも限らない。そう思えば、立ち話のひとつやふたつも、あながち無駄ではないのかもしれない。
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