意地悪
- Napple
- 3 時間前
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2025/4/24

人は、時に、意地悪をする。
それは好ましくない行為として、多くは眉をひそめられる。しかし、どうして人には意地悪という感情や行動があるのだろうと考えはじめると、単純な善悪では測りきれない、何か深いものがあるような気がしてくる。
面白いことに、人は好意を抱く相手にさえ、意地悪をしてしまうことがある。子どもが好きな子にちょっかいを出すようなあれだ。関心を持ってほしい、自分に目を向けてほしいという願いが、回りくどい形で表に出る。言葉にするには少しばかり照れくさい思いが、行動のかたちを歪めてしまうのかもしれない。
けれども、そういった意地悪には、妙なあたたかさがある。困らせておきながら、内心では「困っている顔も可愛いな」などと思っていたりするのだから、人の心はまったくもって不思議だ。そうされた側も、なぜだか少しだけうれしい気持ちが残ったりする。もちろん、それが常に良いとは言えないが、少なくともそこには、敵意よりも、未熟な愛情がある。
一方で、好意を持てない相手に向けられる意地悪は、まったく別の相を帯びてくる。怒りや嫌悪、あるいは「それは間違っている」という正義感めいた感情が混ざっていて、それがどうにも処理できず、こぼれ出す。本人の中では「注意のつもりだった」と言い訳がつくかもしれないが、その実は「ざまあみろ」という感情が根にある。
意地悪をしてしまったあとに残るのは、たいていの場合、気まずさと後悔だ。それは好意を持つ相手であっても、持てない相手であっても変わらない。ただ、その色合いには違いがある。前者には「しまったな」という照れ笑いが混じるが、後者には「やりすぎたかもしれない」という苦い反省がついて回る。
自分の中の明るい感情を見ていたいと思うけれど、負の感情もまた、自分自身なのだろう。だからこそ、そうした感情に目を向けてみることには意味がある気がする。意地悪もまた、人の感情のスパイスのようなものなのかもしれない。うまく使えば、関係を深める風味にもなり、誤れば、ただの焦げつきになる。
そんなことを、ぼんやり考えている。
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