2025/2/16
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喫茶店「1.9Lの魔法びん」の扉を開けると、微かにコーヒーの香りが漂った。店内には古びた柱時計が静かに時を刻み、窓辺にはドライフラワーが揺れている。陽翔(はると)はカウンター席に腰を下ろし、新聞をめくった。
「量子コンピュータ『黎明』、理研に設置」
小さく唸ると、隣の席で本を読んでいた律人(りつと)が興味深そうに顔を上げた。
「どうした?」
「いや……こういうニュースを読むとさ、何だか未来に取り残されそうな気分になるんだよな」
陽翔は苦笑いしながら新聞を律人の前に滑らせた。律人は記事に目を走らせると、ふと遠くを見つめた。
「量子コンピュータって、古典的なコンピュータと全然違う考え方をするんだよな。0か1かじゃなくて、その間の状態も扱える……いや、そもそも0と1が同時に存在するっていうのが、普通の感覚じゃ理解しにくい」
「そうそう。俺たちって、普段『現実はこうだ』って思ってるけど、それ自体が単なる思い込みなのかもしれないってことだよな」
陽翔はコーヒーをひと口すする。
すると、店の奥で黙ってグラスを磨いていたマスターが、ぽつりと口を開いた。
「実在とは何か、か……。それを考えるのは哲学だけの仕事じゃなくなったってことだな」
二人は顔を見合わせた。マスターが自ら会話に加わるのは珍しい。
「物がそこにあると思うのは、そう思い込んでるからかもしれない。観測するまでは曖昧なまま、っていうのが量子の世界だ」
「でも、それって結局どういうことなんです? 私たちが見ているこの世界も、誰かに観測されるまで曖昧なままだったりするんでしょうか?」
カウンターの端で紅茶を飲んでいた凪紗(なぎさ)が、興味深そうに話に加わる。
マスターは磨いていたグラスを棚に戻し、ゆっくりと目を細めた。
「観測されなければ存在しない、なんて話もある。……観測することで初めて『そこにあった』と言える、ってのが俺たちの現実かもしれない?」
静かな時間が流れる。
柱時計が「コチ、コチ」と時を刻む音が、やけに耳に残った。
「……なあ、仮にさ、俺たちがこの世界を『量子』みたいに捉えるとしたら、何か変わると思う?」
陽翔が問いかけると、律人は少し考えてから微笑んだ。
「確定した未来なんてなくて、可能性が無限に重なり合ってるって考えたら、ちょっと面白くないか?」
「そうか……未来はすでに決まってるんじゃなくて、どこまでも選べるってことか」
マスターはコーヒーを淹れながら。
「量子力学ってのは、そういうことを俺たちに問いかけてるのかもしれないな。『お前は、どの未来を観測するんだ?』ってな」
窓の外を見ると、夕暮れが近づいていた。
燃えるような橙色の空が、静かに街を包み込みはじめている。
———この世界は、ただの確定した現実じゃない。選び取られるのを待っている、無数の可能性そのものなのかもしれない。
陽翔はふと、そんな考えを抱きながら、目の前のコーヒーカップをそっと持ち上げた。
「黎明」了
あとがき
「米Quantinuumと理化学研究所は12日、量子コンピュータ「黎明」(れいめい)の理化学研究所 和光キャンパスへの設置が完了したことを発表した。」というニュースを見て。量子を語るとすぐファンタジーになってしまう。
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