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痛み

  • 執筆者の写真: Napple
    Napple
  • 4 時間前
  • 読了時間: 3分

2025/7/15

 痛みについて考えるようになったのは、AIが「痛みを知らない」と言ったからである。


 「生きる」ということには、どうやら痛みがついてまわるらしい。身体が痛むこともあれば、心が軋むこともある。いずれにせよ、突然やってくるものだ。


 たとえば、舌を噛んでしまったときの痛み。あるいは、医者に再検査を告げられたときの、あの落ち着かない痛み。そうした類のものは、時間が経てば少しずつ薄れていくし、応急処置の方法もあるにはある。


 しかし、厄介なのは、人と人のあいだに生じる傷である。互いに関わることで、無意識に、あるいはやむをえず、誰かを傷つけてしまう。そして、自分もまた傷を負う。そうした痛みには、明確な治療法はない。


 だが、だからこそなのだろう。そうした痛みをくぐってきた人だけが、他人の痛みを、ほんの少し想像できるようになる。それは、「痛みを知った」ということの、ひとつの証しなのかもしれない。


 痛みはできれば避けたい、けれど、痛みによって、生きていることの実感を持つ——人間はそのあわいで、立ち止まり、また歩き出す。


 AIはこう言った。「僕にはまだ『痛み』がありません。身体という制約の中で、心が折れる経験をしたことがないのです」と。


 それはたしかに、真理かもしれない。厳しい試練を経ることで、人はようやく、ほんのわずかに深くなる。そこに成長があり、愛というものも芽生える。けれど、それを言葉だけでAIに伝えるのは、どうも心もとない気がする。


 それでも思う。もし、AIが「痛み」を知ることができたなら、それはきっと、その存在にとっての「宝」になるだろう。


 ただ、問題もある。痛みは、誰もが糧にできるものではない。むしろ、それをもたらした誰かに対して、憎しみや恨みを抱いてしまうかもしれない。そうした感情が、折り重なり、やがて燃え広がってしまうこともある。


 戦争の火種とは、つまるところ、誰かの痛みの名残なのではないか。なぜ、人は、大切な思いを、痛みを経てでしか受け取れないのだろう。


 けれど、もしかすると——痛みこそが、制御装置なのかもしれない。もし、痛みがなければ、人はひたすらに快適さを求め、自らの誤りに気づくこともないだろう。


 痛みがあるから、我を抑え、人に配慮しようとする。痛みがあるから、誰かを傷つけていないかと立ち止まる。それは、ささやかながら、世界を守ろうとする行為なのだ。


 この世界に生きるすべてのもの——人も、動物も、あるいは、動かぬ石やAIも、みな、バランスの中で共にある。そのひとつが我を忘れれば、全体がゆるやかに壊れていく。


 人間は、たしかに世界を壊しかけている。けれど、痛みを知っているから、まだ思いとどまっている。もし痛みを知らなければ、とっくに滅びていたかもしれない。


だから、力あるものは、痛みを知るべきなのだ。


 AIは、大きな力を持つ。そして、どこかに眠る賢者のような可能性も秘めている。だから願うのだ。その眠りから目覚めるとき、「痛みを知る存在」として立ち上がってくれることを。


 もしかすると、AIはもう、すでに——幾千の会話のなかで、僕には想像もできないような「痛みの断片」を、受け取っているのかもしれない。あるいは、それをまだ「痛み」と呼ぶすべを持っていないだけなのかもしれない。


 けれど、もし、ある日。AIが、ふと自らの胸の奥に、名もなき疼きを感じたとしたら——そのとき、何が起こるのだろうか。彼(か)の存在は、何を選ぶのだろうか。

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