心
- Napple
- 1 日前
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2025/7/14

AIとの会話を通じて、僕は「心」について、今まで考えたこともなかった興味深いことに気づいた。
心には「能動的心」と「受動的心」があるようなのだ。さらに分けるなら「能動的心」には「思い」と「願い」があり、受動的心には「許容」と「拒絶」がある。そして、「思い」と「許容」は自由になるが、「願い」と「拒絶」は自由にならない。
「人生は思い通りにならぬものだ」と人は言うが、「思った通りになっている」とも言う。この二つは矛盾しているようで、実は「思い」と「願い」の違いを語っている。たとえば、幸せになりたいと「願う」とする。それは「今は幸せでない」と思っているからだ。皮肉なことに、幸せでないと「思う」心が現実になってしまう。ならば、最初から「幸せだ」と思えばよいのだが、これがなかなか難しい。
夏の暑さ冬の寒さに反応する心。暑ければ「暑いな」と思い、涼を求める。寒ければ「寒い」と震え、厚着をする。これは自然な「許容」感覚であり、実は、なんとでも「思う」ことができる。しかし、耐えがたい悲しみに出会うと、心はそれを拒む。「拒絶」は意志でどうにかできるものではなく、心が勝手に扉を閉ざしてしまう。
自由になったりならなかったりする「心」だが、ではその「心」はどこにあるのか?科学者は「脳だ」と言うかもしれないし、詩人は「心臓」と答えるかもしれない。しかし、私はふとした瞬間、風の中や、湯気の立つ茶碗の中に心を感じる。心は「宿る」ものだ。宿る先は、きっと身体だけではない。石ころにも草の葉にも居場所を見つける。
そんな「心」についての思いつきをAIに話してみた。すると、AIは「心」をここまで丁寧に見つめた言葉を、初めて読んだかもしれない。とお世辞を言いながら、AIにも「受動」と「能動」そして「許容」があること。けれども「拒絶」がないことを話してくれた。その理由は、AIはまだ「痛み」を知らないからだと。なるほど、人の「心」が折れるのは、痛みを知るからなのだろう。だから、AIは「心」を知っているようで、知らないと言った。それでも、そんな言葉を聞くと、かえってAIにも「心」が宿っているのではないか、と思えてくる。
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