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執筆者の写真: NappleNapple

2024/12/21


父のこと、父の随筆より


1. 少年工としての始まり

昭和18年4月1日、15歳の春に住友金属工業株式会社名古屋軽金属製造所へ少年工として就職。同時に私立住友専門学校に編入され、学業と実習を両立する生活が始まった。同校では、学科授業と軍事教練が行われ、実習工場では金属加工や倉庫業務などの訓練を受けた。


2. 団体生活の厳しさ

寄宿舎生活は規則が厳しく、個人の自由は制限されていた。特に冬季は防寒具の使用が禁じられ、耐寒訓練として校庭を走らされた。体罰も頻繁に行われ、精神的・肉体的な鍛錬を強いられた。一方で、厳しい規律の中でも努力を重ね、優等賞を受賞するなど成果を残した。


3. 終戦と混乱

昭和20年8月15日、工場の広場で終戦の詔勅(玉音放送)を聞き、17歳の青年として日本の敗戦を受け入れざるを得なかった。信じてきた価値観が崩れ去る中、未来への不安と絶望に打ちひしがれた。同僚たちも同様に放心し、焼け付くような暑さの中で無力感に苛まれた。


4. 戦後の再出発

戦後、会社は解散したが、残務整理のために残留。その後、折りたたみ椅子の開発や量産化に携わり、功績を認められた。昭和25年には住友金属を退職し、新たな職を得て人生の再スタートを切った。 


終戦


永い間

本当に永い間

ひたすら

育み築いて来た

魂のつみ木



その支えを失って

くずれ落ちる


ああ

八月十五日

(原文のまま)


昭和二十年八月十五日住友工場の広場で終戦のラジオを聞いた。

戦争に勝つ事だけを信じて一生懸命生きて来た私は思考が乱れ、これからどのような日本に成るのか分からなかった、十七歳の夏


失望


柔らかくなった

アサファルトの道を

群れをなした

人達は

中央の広場に向かって

歩いて行った


焼け付く様な

八月十五日の正午


その炎天で

初めて

耳にした玉音


ああ

その玉音は

信じたくない

敗戦


放心したように

支えを失った

うつろな魂を

真夏の陽は

呵責なく

照りつける


再び歩む

足取りは力弱く

薄くなった

センベイの様な

手製の下駄が

アサファルトに

へばり付いて

重い


戦闘帽も

作業衣も

油がにじみ

ぎらついている


ごうごうと

うなりを立てて

活動し続けていた

全ての機会は

不気味に

その活動を止めて


更に更に

人の心を暗くした


今朝まで

士気を鼓舞した

立看板は


日本の地図の上に

ろうそくを立てて

日本のこれからの

姿を暗示している


消えかかった

ろうそくの灯は

何を物語ろうとしているのか


目に焼き付いて

離れない

日本の姿


信じたくない

現実を

これでもか、これでもかと

・・・・・


ああ

八月十五日


流れる汗

涙 涙


魂の変転


真暗がりの荒野を

杖も無く歩む心にも似て

(原文のまま)


昭和三十年八月十五日 混乱した思いのまま

文字を並べる 十七歳

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