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執筆者の写真napple

回想ワンダーフォーゲル部

 毎日体力づくりのためにトレーニングを行い、基礎技術と体力を養成する錬成合宿、夏秋冬春の予備合宿、下見、本合宿、合同ワンデリング、パートワンデリングなどを通して、年間100日以上を山で暮らした時代があった。



トレーニング

 夕方6時から約1時間、ランニング・腹筋・腕立て・スクワット・歩荷(人をおぶって階段を上り下りする)を繰り返した。当時はまだ科学的なトレーニングは一般的ではなかったから、兎跳びも頻繁に行われたし、腹筋も膝を伸ばして行なっていた。A~Fのランニングコースは順に距離が遠くなる。今日はFと告げられるとめまいがした。どのコースもクラブセンターから出て公道をランニングする。1年生の頃、女子校周辺で先輩に尻を蹴られる。悔しかったが、へばってしまってどうにもならなかった。後輩が入ってくる頃になると、だらだらと伸びたランニングの列を、先頭から最後尾まで何度も往復しながら、後輩の尻を蹴るようになっていた。1年、2年、3年とトレーニングを続けることで体は引き締まり、腹筋は仮面ライダーのようになっていた。毎日のトレーニングに根をあげ、やめたいと思うようになる頃。先輩は後輩を下宿に誘い、飯を奢り酒を飲ませ。悩みを聞いた。数人去っていったが多くが残った。


 入ったばかりの頃は食等訓練と設営訓練を何度も行う。初めての食等訓練の時、水中眼鏡を持参し、玉ねぎを切った。先輩が「えーもんしとるな。ちょっと見せてんかー」そう言って、戻って来た水中眼鏡をつけて玉ねぎを切ると、今度は異様に涙が出る。不審に思い、水中眼鏡を見ると、メガネの内側に玉ねぎが擦り付けられていた。先輩に抗議すると。しこたま叱られた。缶炉(食缶をくり抜いて作ったコンロ)に薪をくべて火を起こす時も、火がつき始めると、先輩が「雨が降って来たぞ」と水をかける。用意した薪にも水をかける。新入生は文句を言うが、山にゆくと、そんなことはしょっちゅう起こることだと気ずく。雨を避け、火が消えないようにしながら、缶炉に湿った薪を立てかけ、乾かしながら火を起こすことを覚える。大鍋で飯を炊くには、木の蓋の隙間を新聞紙で塞ぐようにマスクをすることも覚える。標高が高い山では沸点が低く、飯に芯が残りガンタ飯になる。これを避けるために水を多くすると、ベチャベチャになる。最悪はベチャガンタだ。水加減・火加減を覚えるには経験が必要だった。しかしどんなにまずい飯でも先輩は文句を言わなかった。食器を洗うために磨き砂を用意したが、砂や雪を使うことが多く。自然を汚さないよう教えられた。


 テントの設営は、初めもたもたしているが、徐々に慣れて上手くなる。慣れてくると先輩がペグ(テントを固定するために地面に打ち付ける棒状のもの)をこっそり隠したりする。そんなことも見越して、周りをよく見ながら、何事もなかったように、テントを建てられるようになる。テントは一人では立てられない。声を掛け合い、テントの周囲を走りながら立ててゆく。ペグを打ち付けるには石を使った。乱暴な扱いでペグもひん曲がり、地面に刺さりにくいものがある。そもそも岩場ではペグが効かないから、ペグにロープを引っ掛け石で抑えたりと工夫がいる。自然に協力すること、段取りすること、山で暮らす知恵を学んだ。


 

新旧人錬成合宿

 新入生に山がどんなところかを教え。2年生に後輩を指導することを教えることが目的だ。新入生にとっては、信じられないくらいキツくて苦しい体験となった。2年生は団体装備の他に、土を詰めたドンゴロスや石をザックに詰められ、過酷な状態で、後輩の前で弱音を吐かずに面倒を見なければならなかった。リーダーとなった3年生も余裕はなかった、天候が荒れるのを心配し、後輩たちの体調を心配した。場所は比良山と決まっていたが、歩くコースは毎回変えていた。

 

1次錬成合宿

 新入生の技術力と精神力を鍛えることが目的だ。新旧人錬成の時は個装だけですんだ1年生だったが、今回は団体装備に加え、土を詰めたドンゴロスをザックに詰められる。一人ではザックを担げない者もいた。そもそも、体力は十分な年代である、そこであえて過負荷を与えて、体力と精神力の限界を経験させることが一番の目的だった。故に完走することは重要ではなかった。むしろ、完走できずに下山する、そうした状況に追い込むことが求められた。それは2年生やリーダーの資質や判断力の養成でもあった。場所は金剛山で毎回同じコースを歩いた。

 

2次錬成合宿

 イレギュラーに対応できるようになることが目的だ。あえて夕方から入山し、真っ暗な中で、山行、設営、食等を行う。1次錬成は完走を求めなかったが、2次錬成は完走することも目的だ。もし1次錬成で完走できなかった経験をしていると、2次錬成こそは完走しようという意欲を持ったし、完走することで、達成感は倍増した。たかだか3回だが、この3回の錬成合宿と毎日のトレーニングで、驚くほど体力が付いていた。山道を歩く技術、設営・食等技術も向上した。場所は六甲山で毎回同じコースを歩いた。

 

夏合宿

 身につけた技術と体力を試すべく、約2週間をかけて日本の代表的な標高3000m級の山に登る。北アルプスと南アルプスに交互に出かけた。全員で完走することを最大の目標とした。予備合宿を比良山で行い、パーティメンバーの団結を高める。2年生と3年生は下見を行い、必要があれば歩荷(食料の荷揚げ)を行なって夏合宿に臨んだ。行動3パーティと現地本部1パーティを置いた。現地本部は事故対策本部である。行動パーティで怪我をしたり、行動できなくなったメンバーを受け入れた。毎年、誰かしらが、行動を離れ現地本部入りした。

 

秋合宿

 技術と体力をさらに高め、雪が着き始めた山での雪上技術を身につけることが目的だ。場所は決まっていなかったが、今までに行ったことがないところへ行きたがった。夏合宿を乗り切ったことで、部員同士の結束も深まり、お互いの技量も把握してくる。各々が自信も持ち始め、景色も今までと打って変わり、山行きを楽しめるようになっている。

 

冬合宿

 本格的な雪山技術を身につけることと、スキー技術を身につけることが目的だ。秋合宿でなんとなく体験した雪上技術を、本格的に習得する。毎年乗鞍の同じ場所で訓練した。冬装備(ダブルヤッケの上下にロングスパッツを履き、ジャガード手袋の上にミトンをつけ、目出し帽にゴーグル)に身を固め、腰まで沈む新雪の中をワカンを履き、膝で雪を押し固めるようにラッセルをして進んでゆく。アイスバーンではアイゼンを履いた。テントも、食等も冬用に変わる。今までの経験を生かしつつ、新しい技術を身につけた。縦走がモットーで、岩登りは行わなかった。2年生になると皆ピッケルを手に入れ、滑落停止、グリセード(雪渓をピッケルを利用して滑り降りる技術)を練習したが、ピッケルが活躍することはない。また冬合宿の後半は民宿に宿泊してのスキー合宿だった。

 

春合宿

 1年間培って来た技術と体力の集大成の場だ。場所は決まっておらず、雪山志向だったが、自分がリーダーの時は、反発心から、屋久島を選んだ。予備合宿を行いパーティの結束を高め、下見を行ない、より困難なことに挑もうとした。学生にとって学年が変わることは大きな区切りとなる。1年生はこの合宿が終わると2年生になり、今まで先輩に頼っていたが、次回からは後輩の面倒を見る立場となる。2年生は次回からはリーダーとなり、自分たちが全てを計画し1年間を進めていく中心となる。このため春合宿の最終日は1年間の打ち上げの日であり、引き継ぎの日でもある。3年生から2年生へ主将・主務・副将らが引き継がれ、2年生から1年生へ装備・食等・衛生らが引き継がれる。主務は踊りもこの日に引き継ぎを行なった。合宿の始めと終わりは円陣を組み、部旗を立てる。円陣の中心で主務が踊りながら前節を発声し、円陣のメンバーが唱和した。大阪駅のコンコースや河原など所構わず行われ、衆目を集めた。

 

合同ワンデリング(合ワン)

 色々な大学のワンダーフォーゲル部員が技術交流や清掃活動を通じて親睦を深め合うことが目的である。当時どの大学も、装備や技術に大差はなく、初めての者同士が集まっても、戸惑うことなく、パーティーリーダーとなった学生の用意したテントや装備を使いこなすことができた。山では排泄行為を「キジ打ち」と言い。男性も女性も皆「キジ打ちに行ってきまーす」と言って芯を抜いたトイレットペーパーを持ってテントを出て行った。同世代の異性が狭いテントの中で当たり前のように一緒に生活できたことは素晴らしかった。皆紳士淑女だった。

 

パートワンデリング(パーワン)

 型にはまった合宿とは一味異なり、純粋に山行きを楽しむことが目的だった。繰り返しの錬成合宿で誰も山登りが嫌いになる。そこを合ワンで辛うじてつなぎとめられ、夏合宿で感動して、やっぱり山っていいなと思い始める。技術や体力もある程度付いたころにパーワンがある。1年生の頃は先輩に誘われて、2年生になると自分で企画して山登りをした。雪がつく前の山に出かけるのだ。この頃には山の虜になっている。

 

 命の危険を伴う山登り。たかだか1年先輩というだけで、偉そうにするわけではなかったが、殴る以外に後輩に喝を入れ、命を守る方法を知らなかった。そんな時代の山登りだ。今はずいぶん違うのだろうが、命を守るために、どうしても厳しくなるはずだが、どんな方法を取っているのだろう。


個々の山行記録はRecordsに記録した。

これまでに登った山をマップにマークした。

閲覧数:339回5件のコメント

5 Comments


Kozo  Honma
Kozo Honma
Jan 22, 2019

やはりカバー写真が話題。奥さんに見せて「誰かわかる?」と聞いたところ、答えられず。

答えを教えると、とてもとても驚いてました。

しかし、すごいテキスト量。よく覚えてましたね。当時の雰囲気というか、大学生のワンダーフォーゲル部愛というのでしょうか、それが伝わってきました。

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napple
napple
Nov 22, 2018

2018年11月20日

OB会から「山小屋の修繕について」連絡が届いた。

山小屋の現状:

  • 数年前屋根の一部がずれ落ちた。

  • 雨漏りが起こった為ブルーシートで覆う処置をしていた。

  • 2018年9月に上陸した台風の影響で被害を受けた。

  • 1階の床の状態も悪い為一部を取り除いた。

対応:

  • 倉庫などに使用されるシートで屋根を覆う。

  • 床をアルミ・プラスチックなどの部材で張り替える。

予算:

  • OBによる寄付100万円

作業:

  • 現役による資材歩荷

  • 現役とOB共同によるシート・床の張替え作業

早速寄付を送る。

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napple
napple
Oct 21, 2018

前節

オース

(合いの手)

仰げば北針斜を指すところ

永遠の光ありて不滅の光芒は燦として輝き

頭をめぐらせば北に比叡山脈

南に金剛楠公姿がおおいたち

東をながむれば信貴生駒連山は巍々としてそそり立つ

(合いの手)

これぞ自然のめぐみ豊かなる

河内野の一角に誇り立つは

我等が母校近畿大学なり

(合いの手)

衆児三万いざやいざ 我と来て

歌わんかな おどらんかな 舞わんかな 狂わんかな

我々が熱血の歌 闘争のおどりは

名物近大節の一節を 

ソウリヤ(合いの手)


近大節

此処は浪速か大阪街か

大阪街なら大学は近畿

大学近畿の学生さんは

度胸一つの男伊達

度胸一つで長瀬の街を

歩いて行きます紋付袴

紋付袴は近大の育ち

ぼろはおいらの旗印

ぼろはまとえど心は錦

どんなものにも恐れはせぬぞ

どんなものにも恐れはせぬが

可愛いあの娘にゃかなやせぬ

可愛いあの娘は何時でもすてる

母校の為なら生命までも

生命すててもその名は残る

大学近畿のその名は残る

大学近畿のその名は残る


生きの良いとこ

近代名物数々あれど数あれど

三と三の七拍子

ソーリャ


合宿の最初と最後に円陣を組み、部旗を掲げ、円陣の中央に主務が陣取り、カマキリのように手先を突き出した両手を掲げ、弓なりに仰け反り、朗々と前節を謳い上げ、近大節へと繋ぐ。円陣の皆は前節の間、合いの手を入れ、近大節になると全員で手拍子をしながら合唱、主務は片手づつ手を振り下ろし、時に180度反転しながら、独特の手振りで舞い、最後に三三七拍子で締めくくられる。小中高大と校歌は忘れてしまったが、これは忘れない。勇ましくて語呂の良い前節は今でも酔いに任せて言葉が出てくる。近大節は今のご時世、突っ込み所満載だが、ちょっと前まで日本という国はこんな感じだったのだ。ちなみに、この前節、人によって少しずつ違う。それは先輩から口頭で伝授されるためだとおもう、実際の字面もどう書くか知らない。この記述は適当に漢字変換した結果であるのであしからず。

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napple
napple
Sep 19, 2018

2018年8月OB会総会の知らせが届いた。主な案件「比良山小屋の現状と今後の運用について」とあった。山小屋は40年経っても立っているようだが、いろいろな問題があるのだろうと察せられる。大阪を離れてから活動になんら寄与していないのを心苦しく思う。

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napple
napple
Jul 24, 2018

学生時代に登った山の記録をまとめたいと常々思っていた。幸い当時の合宿要項が残っていたので日程と行程は概ねわかる。Google mapに行程を書いて俯瞰したかった。書き出してみると、40年も前のことなのに、その頃の気持ちを徐々に思い出す。なんだか不思議な気がする。

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