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遥かなる四季の音色

執筆者の写真: NappleNapple

2024/12/14


プロローグ


 三角屋根に鎧戸のついたアーチ型の窓から、春の光がこぼれる。古びた木のドアにかけられた「1.9ℓの魔法びん」という看板は、まるで時を閉じ込めたかのようだ。中に入ると、ほの暗い空間に蓄音機の音が静かに流れている。古い真空管ラジオとアンティークな扇風機、カウンターには妙な形のビール瓶が並ぶ。「時を飲む場所」――それが喫茶店「1.9ℓの魔法びん」の佇まいだった。


 カウンターの奥にいるマスターが、ミルで豆を挽く音だけが店内に響く。春の午後、静けさを破るように木のドアが鈴の音とともに開く。入ってきたのは陽翔(はると)と花乃(はなの)だ。二人はこの店の常連客であり、カウンターに座るといつものように「ルシアンコーヒー」と「ミルクティー」を頼んだ。陽翔はくたびれたツイードのジャケットを羽織り、花乃は毛糸のカーディガンに花柄のワンピース。二人とも、どこか懐かしい時代から切り取られたような風貌だった。「ねえ、陽翔。週末、あのログハウス見に行こうよ」「ログハウス?」「うん、湖の近くにね、知り合いが手放そうとしているんだって。私たちの新しい場所に……どうかな?」花乃の瞳はきらきらと輝いている。陽翔は少し驚いた顔をしながら、花乃の言葉を噛みしめるように頷いた。



 湖畔のログハウスは、緑に包まれていた。壁一面に使われた無垢材が、ほのかな木の香りを漂わせ、窓からは湖面が穏やかに光るのが見える。陽翔と花乃は、ようやくここを自分たちの「家」にする決心をした。「この窓際に、マッキンを置こう。ね、陽翔?」「そうだな。レコードを聴きながら、湖の音も聞こえて……いいかもしれない」彼らは少しずつ、二人の色でこの家を満たしていく。ログハウスの真ん中には、陽翔が大事にしている「マッキントッシュ」と「JBL」のスピーカーが置かれた。それは陽翔の父親が残してくれたものだった。「これ、懐かしいね。お父さんがよく聴いていた音楽」陽翔は少しだけ遠くを見つめ、頷く。「俺にとってはこれが音の原点だからな」花乃はそんな陽翔を見つめて、手をぎゅっと握りしめた。「これからは二人で、思い出を積み重ねていこうね」



 湖畔の森が赤や黄に色づくころ、花乃の体調が急激に悪化する。彼女は以前から体が弱かったが、それを隠すように笑っていた。「大丈夫、大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ」しかし、病院の診断は深刻だった。「長くない」と医師が告げたその日、陽翔は一人で店を飛び出し、愛車のミニに乗り込む。冷たい風が顔を打ちつける中、陽翔は無我夢中でハンドルを握った。花乃を失いたくない。その思いだけが、彼の胸に渦巻く。



 花乃の体調は日ごとに悪化したが、それでも彼女は「湖畔のログハウスで過ごしたい」と言い張った。陽翔は、そんな花乃の願いを叶えるために家にこもり、父親譲りのマッキントッシュに最後の手入れを施した。「ねえ、聴きたい曲があるの。あの頃、あなたと一緒に聴いた曲」彼女が指差したのは、二人が喫茶店「1.9ℓの魔法びん」でよく聴いていたレコードだ。陽翔は震える手でレコードをセットし、針を落とした。静寂を破るように、優しい音色が部屋に広がる。「ねえ、陽翔……この音、まるで春みたいだね」窓の外は、白銀の世界。湖も森も、静かに雪に覆われている。花乃はベッドに横たわりながら、陽翔に微笑んだ。「春になったらさ……また、一緒に散歩しよう」「……ああ、しよう」陽翔は涙をこらえながら、彼女の手を握る。その瞬間、彼は胸が張り裂けそうなほどの愛おしさと、どうしようもない絶望を感じていた。



 花乃はその冬を越えることができなかった。湖畔のログハウスには、花乃が大切にしていた花柄のカーテンが揺れている。陽翔は静かな部屋で、ひとりマッキンの音に耳を傾ける。彼の目に映るのは、春の湖畔。柔らかな風が頬を撫で、遠くで小鳥がさえずる。ミニは、ログハウスの前に静かに停まっていた。「花乃……」陽翔は小さな声で呟き、空を見上げる。花乃と過ごした日々、彼女の笑顔、彼女の声――すべてが湖面に映るかのように揺れている。その日、陽翔は久しぶりに「1.9ℓの魔法びん」に向かった。店には変わらない時間が流れ、マスターが静かにコーヒーを淹れている。「久しぶりだな」マスターの言葉に、陽翔は小さく頷き、カウンターに座る。「マスター……俺、彼女を幸せにできたかな」「お前さんがそう思うなら、それが答えだ」カウンターに置かれたコーヒーカップから、湯気が立ち上る。陽翔はその湯気の向こうに、花乃の笑顔が見えた気がした。


エピローグ


 春の湖畔。ログハウスの中で、マッキンの音が静かに流れている。窓から見える湖面には、光がきらめき、まるで花乃が微笑んでいるようだった。


「遥かなる四季の音色」完


 

あとがき


 好きななものを盛り込んで物語ろうと思ったら、こんなに悲しい物語に。

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